土俵際の競り負けで凍え死ぬ羽目になった話。

失敗の水曜日。

ここのところ、卒業に向けて研究と勉強の日々である。先日研究室に泊まっていて、気分転換のため銭湯に行こうと思い立った。深夜0時過ぎのことだった。タオルを持ち上着を着て、部屋を出た。大学構内は斜面に立てられており、B1階と3階が地上に面している。私はB1階の方から外に出て一服し、しばらく歩いてからはたと気づいた。財布がない。上着のポケットにも、下に着ているパーカのポケットにもない。部屋に置き忘れてきたのだ。建物の入口まで歩きながら愕然とした。大学構内の建物の入り口は18時以降施錠されており、学生証がないと開けることができない。そしてその学生証は普段財布に入れているのだ。つまり、寒空の下、タオル片手に閉めだされてしまったわけだ。4つの棟があり、それぞれを結ぶ通路は建物の外に出ている造りになっている。

震えながらもう1本煙草をふかし、どうするか考える。昼間であれば3階の入口のみ開放されているため、外階段で3階まで行けば良い。しかし深夜はすべての入口が施錠されているのだ。ひとまず自分の研究室がある棟のそばに行き、最も人通りが多いであろう3階まで上がり、出てくる人がいないか様子をうかがった。しかし、時刻は0時を回っており、そうそう人が通るはずもない。研究室に1人だけ残っているのを思い出し、彼に連絡を取ろうとするも、その連絡先を知らない。大学から付与されたメールアドレスはわかるが、パソコンのある居室とは違う実験室に篭っている彼が気づくとも思えない。もうダメだ、そう思いかけた時、B1階に人がいるのを見つけた。とっさに声をかければよかったものの、あまりに遠いところであったのと、暗くて静謐な大学構内で大声を出すのが憚られた。街なかでマシンガンをばらまいている人間とは思えない遠慮の仕方である。

その後、夜景を見ながら外階段でB1階に降り、人が通るのを待つと、帰る途中の人が現れた。声をかけ、事情を途中まで話したところで理解してくれたので、「よくある話なんですか、これ」と尋ねるとそうでもないとの答えであった。声をかけ、少し引き返して鍵を開けてくれることになった。ただし、向かったのは私の研究室の棟でなく、その手前の棟であった。当然「あれ、深夜は3階の外部通路も施錠されてるから棟間の移動って出来ないでしょ」と訪ねても「大丈夫、大丈夫」の一点張り。私の普段使わない棟だったので、そこから移動できない確証はないし、引き返すことをお願いしている手前、悪いなと思って黙って首をかしげるだけに留めた。向かった棟は声をかけたところから10メートルくらい、私の等は30メートルくらいだったので、その差はたった20メートルだったにもかかわらず。礼を言い、鍵を開けてもらう。入った棟は私の棟の2つ隣だった。3階まで上がり、隣の棟に移動する。彼の言ったとおり、外階段は施錠されていなかった。ほっと胸をなでおろして、私の棟に向かう。渡り廊下を歩き、ドアを...開かない。一つ目の通路は外階段では行けない通路なので、外部の人が入ってくる心配がなく、施錠していないようだった。しかし、この通路は外とつながっているため、施錠されていたようだ。考えれば当然のことである。この時点で夜1時を過ぎていた。深夜1時半で銭湯の入場が終了となるので、気は急くばかりだった。

結局、2人組が偶然にも登校(!)してきたため、無事に研究室に戻ることができ、銭湯にもギリギリ間に合ったのだが、あのとき判断が鈍って、あとほんの少し主張し、押して20メートル余分に歩いてもらわなかったことを後悔した。そのモヤモヤは露天風呂でさっぱりと洗い流せたつもりなのだけど、やっぱり咄嗟の判断・交渉という分野でうまくできなかったのは街なかでマシンガンを打ち続けていた人間としては久しぶりのことで、衰えを感じた。銭湯で髪を洗うとごっそり抜けたし、歯を磨くと歯が3本抜けたので、比喩ではなく本当に衰えているのかもしれない。またマシンガンを持ちだして若いおとめの血を吸いに出かけねばならない。前日食べたラーメンにニンニクが入っていたのだろう。

包丁を押し当てて、押し当てて押し当てて。

料理をする人やリストカッターケンイチくんならわかると思うけど、包丁を押し当てるだけでは、ものは切れない。重力方向に力を入れても切れない。水平方向に押すか引くかして初めて切れるのだ。柔らかくて大事な部分に包丁を当てたとて、グッと押し当てたとて、押し引きさえしなければ、皮が破れ、血が流れることはない。

以前私がハマっていた表現に、「包丁を振り回す」というのがある。社会や人に影響を与えたり、言葉を投げかけたり、とにかく何らかのアクションを起こすのはおこがましいことで、本来はすべきでないことである、あるいは細心の注意を払う必要がある。そういう風に考えていたのだろう。いずれも意味がちょっと良くわからないけど昔の私はこんなことを言っている。包丁好きだった。



マシンガンを街なかで構えていた人間ではあるが、とにかくアクションを起こすことを忌避していたのだけれど、最近はそうでもないかもしれないと信じられるようになってきた。ひとまず、包丁を押し当てるような感覚で生きていこうと思うし、読む人に包丁を押し当てるブログを書いていこうと思っている。包丁を振り回すよりも、懐に忍ばせ続けるよりも、それは藝のあることだと思う。

座れば官軍立てば賊軍,電車戦争が私の頭のなかで勃発しています

最近,毎日電車に乗っている。なにもわざわざ言うほどではないだろう,新幹線ならまだしも,電車などごくありふれた交通手段ではないか,と多くの人は思われるだろう。ただ,京都に住み京都の学校に通っていた私にとっては,毎日電車に乗るなんてことは考えられなかった。ここ数年,大阪に行く時や旅行するとき,つまり特別な用事がある場合にのみ乗っていなかったのだけれど,大阪に住み京都の学校に通うようになって,乗る機会が増えた。久しぶりに日常的に電車に乗って思うことがある。繰り返すことで,無意識に行動することで見えてくるのだなあ。ルーティーンは偉大である。

気付いたのは,立つと座るじゃ大違いだということだ。座れれば官軍となる。パーソナルスペースを確保し,本を読んで時にはうとうとしながら目的地に向かう。カバンは膝の上で,多少隣に気を使えば上着を脱いで体温を調節することもできる。立ちっぱなしでまだかまだかと到着を待ちわびる急いた気分を思うと,座席は天国そのもので,目的地がゆっくりと訪ねてくれる気分でさえある。一方で,立てば賊軍である。すし詰めになり,暑くて臭くてどうしようもない状態で揺られると朝からやる気が二段階下がるし,長時間立ち続けることが毎日続けば体力の面からも辛いものがある。そして,移動時間が長ければ長いほどその差は顕著になる。一時間弱の移動をどう過ごすことになるか,天国と地獄を決める境界線であるのだから,当然乗車時にはみんな殺伐としているように見える。列車の到着ベルが鳴り,ホームの人々が身体を強張らせる様子は戦争前夜の様相を呈す。

しかし,実際の戦争でもそうだったように,座席取りの争いに於いては全ての兵士が前線で命のやり取りをするわけではない。駅によって差はあれど,もっとも激しいうねりのような戦いに巻き込まれるのは,待機列の中盤に並んでいる人々である。最前列で列車を待つ人々は電車がすでに満席でない限り(そして私の使う駅ではそれはほとんどない)座ることができる。彼らは金持ち喧嘩せず,と言わんばかりの姿勢で悠々と空席を埋めていく。珈琲の入った紙コップを持つ余裕がある人もいる。また,列車が到着する直前に列に加わった後列の人々も戦いには参加しない。どうやっても席に着けないのを知っているためである。何の因果か生まれた時から地獄行きのようなもので,往々にして彼らはドア付近というある種の安全圏に避難するが,ドア付近の攻防というのは最後に乗り込んだものがこれを制するという仕組みになっているので,押し合いへし合いというよりは譲り合いになる。譲りあうことで快適度の高いスペースを取り合う。

このように,列の前側の人々は珈琲をすすり,列の後ろ側の人々はニコニコと席を譲り合う中で中間層だけが目の奥ををギラつかせながらストレッチを行い,決戦に備える。心技体を問われる大一番である。毎朝このような争いに巻き込まれながら,非常に良い経験をさせてもらっているなと思う。それは,日々,何度も勝ったり負けたりを繰り返すことである。今朝は官軍だったかと思えば帰りは負けて賊軍になるし,登校時間を調整して官軍の日々が続いても,日によっては負けてしまう。勝敗という2つの真逆な状態を行ったり来たりすることで,現状と逆側のことを考える機会が増える。立っている時にこそ,座った時の安堵,達成感,申し訳なさや快適さを思い出し,そして座った時には,立っている時に周りの善良な市民がぬくぬくと座っているのを見て心が呪詛の言葉で埋め尽くされるのを思い出す。そうして,過去の自分を見つめていると,周りの他人についても見えてくるようになる。過去の自分というのは少なくとも今の自分よりは他人に近い存在なのだから。

人生は,一時間弱を立って過ごすか座って過ごすか,などとは比べ物にならないほど大きな勝負の連続である。公平に競争が出来ればまだ良い方で,中には自分の力ではどうにもならない,運次第の勝負だってあるし,勝ち負けではなくただコインの裏表のように,ただ偶然によって二つのグループのうちいずれかに振り分けられることもある。勝負というよりも選択,二項対立のうち片方を選択するといった方が適切なのかもしれない。そしてその勝ちと負け,あるいは裏と表の隔たりは大きく,容易に行き来できるものではない。例えば生まれた国や親や時代は一生変わらず,その差は人生のあらゆるところで表れるだろう。また,カニが好きな人がカニを嫌いになることはあまり考えられないし,高校時代恋人がいた人は高校時代恋人がいなかった人になることはない。そしてそれらは厳然と区別される。

生きることは選ぶことであり,選ぶことは対立することである。対立の虚しさから自らを解き放つ方法として,「対立を一旦棚上げしておく」という手段しか私は持たなかった。対立はしている,だからなに?という姿勢だ。対立相手の気持ちになろう,よか対立相手のことを知ろう,というのも広い意味では同じなのではないか。ある対立に囚われていることに気付き,それを鼻で笑おう,というような。そういう意味で,重要度が低く,取るに足らないことではあるが,電車での立つ・座るという二つの状態を日々遷移できていることは,ごくごく小さくはあれど精神の旅で,何か発見があるのではないかと考えている。などということで頭をいっぱいにしながら電車に乗ろうとしていると,肩を叩かれた。どうやら順番を抜かしてしまっていたようで,完全に頭に血が上った集団に簀巻きにされ,網棚に放置されてしまった。というわけで遺失物としてJR奈良駅に居る。そんな連休最終日。