傲慢と謙遜と卑屈(オースティンっぽい)

もし、天下一卑屈界が開催されて、キングオブ卑屈になった人間がいたとしたら、その人はどんな人だろうか、と考えたりする。

謙遜することは美徳とされてきた。実際に生きるのに都合が良いことが多い。生意気なことを言ってそれが利益を産むのは一部の魅力ある人間のみで、ほどよく謙遜しておいたほうが軋轢を産まずにすむのだと私は考えていて、それどころか謙遜の度を越して自らを貶め、自信を無くすことが多い。このような態度を卑屈と呼ぶのだろう。

卑屈な人間は自分の勇気や力が無いことをアイデンティティとするしかない。これらをさらけ出し、受け入れてもらうことで精神安定を図ろうとする。「できない」じゃない「やらない」だという理屈は、この考えの持ち主とは対照的に、非常に強くて揺るぎないものだ。もちろん、人には個性があり、向き不向きがある。自らの心の弱い部分に立ち向うには、まずこれを受け入れることが必要だが、その後あがくことをせずして、そのまま他人にも受け入れてもらおうとすることは恥ずかしいことだと私は思う。

などと頭ではわかっているのに私は卑屈な振る舞いをやめることができない。卑屈さは波のように大小の遷移を繰り返しているが、決して消えることはない。保険がかかっている状態の心地良さから逃れられないのだ。

だが、これは果たして卑屈と言えるのだろうか。自らの弱さを主張し押し付けている状態を卑屈と呼ぶことには抵抗がある。矛盾しているようだが、卑屈さは傲慢さと表裏一体だと言えるかもしれない。暴力的ともいえる喧伝の対象が自らの強さから自らの弱さに変わっただけのことではないか。自分に自信がないとは言いつつも、それを受け入れてもらうという厚かましさからは逃れられていないのだ。私はそのことを十分に理解する必要がある。

こんな時...キングならどうするか...と考えてみると、おそらく自らの弱さをひけらかすことさえしないのではないか。世界にとことん絶望し、自分に価値がないと心から思う人間は自らを貶めることさえしない。したがって被害妄想や自虐もしないだろう。その点では強くなる必要さえあるのかもしれない。真に卑屈な人間が卑屈な振る舞いをしないというのは逆説的で、非常に興味深い。と同時に私にとっては勇気の出る発想でもある。これからはキングに敬意を表して、気軽に卑屈になるのを慎みたい。

なお、キングは神話に過ぎないものとして書いていたが、実際に存在するかもしれない実例が思い当たった。それは、何も考えず、また何も考えさせない人間だ。そういう意味では、自らの想像力の欠如を感じることが多い私は最も卑屈な人間になる可能性を有している。(こう宣言した時点でキングへの道は閉ざされるのだが)