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ずっと思っていること

"「わたし」とはなにか.

そこを通りがかったならば,彼がわたしを見るためにそこに向かったと言えるだろうか.
いな.
なぜなら,彼は特にわたしについてかんがえているのではないからである.

ところが,だれかをその美しさのゆえに愛している者は,その人を愛しているのだろうか.
いな.
なぜなら,その人を殺さずにその美しさを殺すであろう天然痘は,
彼がもはやその人を愛さないようにするだろうからである.

そして,もし人がわたしの判断,わたしの記憶のゆえにわたしを愛しているなら,
その人はこの「わたし」を愛しているのだろうか.
いな.
なぜなら,わたしはこれらの性質を,わたし自身を失わないでも,失いうるからである.
このように身体のなかにも,魂のなかにもないとするなら,
この「わたし」というものはいったいどこにあるのだろう.

滅びうるものである以上,「わたし」そのものを作っているのではないこれらの性質のためではなしに,
いったいどうやって身体や魂を愛することができるのだろう.

人は,ある人の魂の実体を,そのなかにどんな性質が有ろうともかまわずに,抽象的に愛するだろうか.
そんなことはできないし,また正しくもないからである.


だから人は,決して人そのものを愛するのでなく,
その性質だけを愛しているのである.

したがって公職や役目のゆえに尊敬される人たちを,あざけるべきでない.
なぜなら,人は,だれをもその借り物の性質のゆえにしか愛さないからである."

(「パンセ」,前田陽一訳)

 

 



3月末にルームシェアをはじめて3ヶ月が経ち,少しずつ馴染んできた.
朝起きた瞬間に人が隣にいることの違和感が薄れてきたし,逆に家に帰って人がいない時に感じる違和感が濃くなってきた.
濃いめに作ったカルピスの中の氷が溶けて,じわじわと薄まっていくかのごとく.なんでルームシェアをしてるのかはすっ飛ばして,ルームシェアをして感じていることについて書きたい.



シェアハウスには多くの人が訪れる.
ほとんどが初めて会う人だけれども,
初対面の人と他愛もないはなしをするのは苦にならない.
しかし,苦にならないのとうまくやれるのとは別の話である.
できるだけお互いのことを知ろうとしているつもりではあるが,しっくりきた試しがない.なぜだろう.

うまくはいかないながらも,何度も自己紹介をして,自己紹介を聞いた.それ以上に他人同士の自己紹介も聞いた.ふとした時に,あることに気づいた.

ほとんどの人が,
・名前
・所属
をまず述べる.

それに対して,自己紹介を受けた人は
・誰の知り合いか
を尋ねるところから会話がはじまる.就活生仲間という前提があれば,内定先を尋ねることもある.そのあと,レッテルから逸脱しない程度に,節度のある会話が繰り広げられるのだ.

 

「自己紹介では名前と所属を述べることが多い」
何を当たり前のことを言っているのか,と感じるかもしれない.
当たり前のことではあるのだが,僕はこのことに気づいてからうまく自己紹介することが出来なくなった.どんなふうに笑ってたかしら,と気になった途端笑顔がぎこちなくなるアレである.自己紹介のスランプに陥った.

おそらく,自己紹介の効用はふたつあって,一つ目は初対面の人,知らない人に感じる不安を取り除くことにある.他の人と区別して呼ぶための名前と,社会的に得た役割を伝えることで,お互いにわかった気になり,安心する.もしくは,安心しても良い,と自分を納得させるのだ.

いま目の前にいる人がどんな人なのか,それがあまりにもわからないと,話をしようがないというのはもっともだ.しかし,中途半端にわかることの方がよっぽどまずい.

他人を完全に「わかる」日など来るはずもないのに,わかった気になってしまい,「あなたのことがわかりません」という真摯な姿勢を失ってはいないか.あなたのことがわかったから,は遮断で傲慢である.あなたのことはどうせわからないから,は怠惰で不感症だ.あなたのことをわからないのだろうけど,という姿勢こそ豊かでうつくしい.

また,自己紹介の効用としてもうひとつ考えられるのが,話をするに足る人か,この人から何か得られるのか,について考えるのにも役立つ,ということである.

 

頭の中にすでにこさえてきた何かを吐き出すだけのコミュニケーション(それはもはやコミュニケーションと呼んで良いのかわからないけど)に陥っていないか.もちろん,そういう姿勢が必要な場はあると思う.例えば権威ある専門家としてコメントを求められた時には,前から問題視していたのですよ,自分の中でその件について考えはまとまっているのですよ,というような含意をこねこね練りこんで話すほうが説得力を増すことができ,その点では合理的な話し方だといえる.

 

しかし,それは家の中でも「理」に適っているのだろうか.

 

熟慮して言葉をひとつひとつ選び,時には沈黙する,というのは表面的には,知識が欠落しているために口ごもっている,自信がないために言いよどんだものと捉えられる.しかし,いま考えている真っ最中で,自分でも話している内容がどう展開するのかがわからず,正しいという確証も持てず,着地点があるかさえ定かではない.そのような話し方は,生きたコミュニケーションへの姿勢としては真摯な態度であると思う.

 

同様の話題については,すでに話したことがあるのかもしれない.すでに自分の中で結論が出ているのかもしれない.しかし,「いま」「ここで」話すのは初めてのはずだ.にもかかわらず,すでにこさえてきたデータをプリントアウトするかのような硬直した姿勢で話すことで,かえってリアリティがなく,説得力が損なわれるということが起こりえるのではないか.

 

なにより,その会話は高いところから低いところに水が流れただけである.水の推移からはエネルギーが取り出せるが,データのプリントアウトからは空しさしか取り出せない.頭の中に何かが新たに生まれる,ということがない.

 

世間がその人を分類する際に付与されるいわゆる"タグ"というものは大事だし,その人とタグとは切っても切り離せないものだとは十分に承知している.パスカルがアイロニカルに指摘したように,ある人とその人に付けられたタグは同一ではなく,借り物にすぎないにもかかわらず,タグを通じてしかその人を見られないのは哀しい事実である.すべての会話はポジショントークである,と言い切ってしまってもいいのかもしれない.

 

僕はきっとあなたのことを知りたいし,話したいのだと思う.

自分の頭の中をできるだけ,コロンと放り出したい.

 

みたいなことを考えながら,販促会議コンペティションに参加して「チーザ」の企画考えました.決勝に残っていれば公開するのでよろしくお願いします.