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7月後半に思っていたこと

某日
美味しい店に行った.志のない居酒屋で飲み会するくらいなら,家でもやしを炒めて缶ビールを飲みながら話をして,本当に美味しい店でだけ,親しい人とだけ外食したい,などと考えてしまう私の心は貧しいのだろうか.
百万遍近くのとあるビストロが,最近ランチのコースを出すようになった.今までは電話での予約時に「うちはアラカルトしかやってない,それで良いですね」と念押ししていた店だ.店主は「ランチのコースをはじめました...世間の流れに勝てませんでした...」というようなことをこぼしたらしい.ランチのコースは価格破壊がひどい.どんな名店でも高々3000円におさめないと割高感があるため,ディナーで使っているランクの食材を使うことができるはずはない.そんなランチの延長線にディナーがあるはずはないのに,ありがたがって,お安い価格で店を試したつもりになっているのは本当におかしい.このことに自覚的な人が少ないので必然的に,食べログは,給料日にしか行けないような良い店を選ぶときには全く役に立たないと思う.昼と夜の評価を分けたり昼の評価をブラインドしたら少しは是正されるかもしれない.



某日
アラビアのロレンスが国に帰って「知恵の七柱」書いてからどうなったのか,みたいなの読んで震えてた.孤独を求める人は果たして孤独なのだろうか.




某日
シェイクスピアのソネットをぱらぱら読んだけどすごく良い.戯曲であれだけ韻文が用いられているのだから当たり前といえば当たり前である.けれど今の今まで知らなかった.今年の夏はなんとしても全戯曲を読みきりたいと思っていたが,併せてソネット集も読みたいと思っている.

  Shall I compare thee to a summer's day?
  Thou art more lovely and more temperate.
  Rough winds do shake the darling buds of May,
  And summer's lease hath all too short a date.
  Sometime too hot the eye of heaven shines,
  And often is his gold complexion dimm'd;
  And every fair from fair sometime declines,
  By chance or nature's changing course untrimm'd;
  But thy eternal summer shall not fade
  Nor lose possession of that fair thou ow'st;
  Nor shall Death brag thou wander'st in his shade,
  When in eternal lines to time thou grow'st:
    So long as men can breathe or eyes can see,
    So long lives this, and this gives life to thee.


単語はわりと平易で,you,your,youがthou,thy,theeってことさえ覚えればうわっつらの意味はわかる.ただし悔しいことに,英語を母語としない私にとっては韻を「わかる」ことはできても「わかる」のは難しい.英語を英語のまま読めたとしても,英語のまま味わうことはできないのだ.必然的に韻文としての楽しみよりも,意味による楽しみを追い求めてしまう.

 君を夏の一日に譬へようか.
 君は更に美しくて,更に優しい.
 心ない風は五月の蕾を散らし,
 又,夏の期限が剩りにも短いのを何とすればいいのか.
 太陽の熱氣は時には堪へ難くて,
 その黄金の面を遮る雲もある.
 そしてどんなに美しいものでもいつも美しくはなくて,
 偶然の出來事や自然の變化に傷けられる.
 併し君の夏が過ぎることはなくて,
 君の美しさが褪せることもない.
 この數行によつて君は永遠に生きて,
 死はその暗い世界を君がさ迷つてゐると得意げに言ふことは出来ない.
   人間が地上にあつて盲にならない間,
   この數行は讀まれて,君に生命を與える.


これは丸谷才一の訳文で,趣があってすごく良い.鳥の声にも似た美しい調べとはこのことである.詩についての本を少しずつ読んでいるが,どうしようもなく気障に思える隠喩が多くてニヤニヤしてしまいそうになる.けれども英語で言うと恥ずかしくないし,文語で言うと恥ずかしくないってのはあると思う.



某日
鴨川の色がいつもと違った.昨日までよりも深くなったのかなと思うような碧さ.そんなはずはないので,おそらく澄んでいたのだろう.そんなことを考えながら大学へ向かって,テストを受けた.夕方の大雨のせいで,帰りの鴨川はカフェオレ色になってた.長編小説と短編小説と随筆と詩と警句の違いみたいなものを考えてた.文学史わかりたいけど,わかる暇がない.
西洋から多種多様な文学が侵略してきて,英文法が勢力を増す中で,今の日本語すなわち国文法を作ったのは昭和の小説家たちであって,評論家でも詩人でもないらしい.そういう意味では大正からの生き残りである谷崎の「文章讀本」は単なる文章の読み方書き方案内ではなく,一種のドキュメンタリーと言えるだろう.
谷崎を嚆矢として,菊池寛川端康成伊藤整三島由紀夫中村真一郎なども続いた.これだけの作家が同時期に文章について語っていることからも,危機感の蔓延が見てとれる.彼らが危機感を背景に,英文学を徹底的に読み抜いたの「陰翳礼讃」は英文法と同時に上陸した,西洋文化と日本の文化についての批評だそうで,読みたいと思っている.(後日,偶然にも同居人が陰翳礼讃を読もうとしていることを知った.一緒に読みたい.)


某日
久しぶりに大学のクラスメイトに会った.私には学科の知り合いがほとんどいない.新入生の頃に部活を優先させていたので,それは道理にかなっている.しかし,私の友人も知り合いと呼べる人はあまりいないと言う.授業に出ていたにもかかわらず,である.これは非常にもったいないと思う.仲良くなれそうな人と仲良くなるのは当たり前で,仲良くなれなさそうな人と仲良くなることこそ意味があり,得難い経験だと思う.はじめは必要に迫られて交流して,そこから見えていなかったものが見えてくる,自然発生的に仲良くなっていく,そんな経験がしたい.そうでもしないと多様性は担保されないのかもしれない.今からだときっかけが無い分しんどいけどなあ.


某日
人と出会って,その人を愛する,というのは絶対的な暴力や,完全な自衛になり得ると思った.


某日
みんなで集まって大富豪をすることがあると思う.その際には,雲の配列の美しさ,鏡のような月に何が映るか,お腹の空き具合,あの子の横顔,そんなものに意識を向ける必要はないだろう.配られたカードをいかに効率良く切り終えるか,現在の自分の順位,人が切ったカード,などを考えていればよい.狼のような眼をしてカードを構えていればよい.
(比喩がわかりにくいかと思います.以下の過去エントリで「カード」を「タグ」と表現しているので参照ください.)
・ずっと思っていること - cauchy
・「じぶんってなんだろう」という話し合いをします - cauchy

狼の眼でカードをうまく切る.そういう生き方をしたくないな,と思っていた.潔癖とも言えるくらいに「効率良くカードを切る人生」を厭っていた.東京に行くたびにそういう人をたくさん見て,疲れていた.所属や学歴や知恵や経験や組織や若さといったカードを携えた人で都会は埋め尽くされている.場に9があれば10を出す.ジョーカーや2を持つことが持て囃され,3や4を引いてしまった人は舌打ちをしながらタイミングや組み合わせにより少しでも強くなるように腐心する.狂っている.以前はこれを単に否定していた.自分のカードをうまく切ることに浅ましさや他の負の感情を抱いて,敬遠していた.

今はこれを否定するのでなく,乗り越えたいと思っている.

というのも,人は手ぶらになれないからである.あなたはカードを所有しているが,あなたはカードではないし,カードはあなたそのものではない.カードにとらわれたくないと考えた時に,自らの持つカードを全て捨てて,カードの散乱する畳からあなたへと,目線を上げようとするのは自然な思考の流れである.
しかし,人が社会と関わって生きていく限りにおいて,どうしても手ぶらになることはできない.したがってタグを意識して意識に上らせないようにすることで溜飲を下げるしかないが,そこには大きな欺瞞が満ちている.とらわれたくないという目的を掲げたがゆえに,カードを捨てること自体に頭の中を占められるとはなんという皮肉だろうか.
結局のところ,これを受け入れざるを得ないのかもしれない.うまく切ることそのものは野暮ではない.浅ましくもない.うまく切っただけでいい気になっているのが野暮であり浅ましくもあり,格好悪いのだ.高次の目的を達成するための手段としてうまく切るのは格好悪いことだろうか?と考えるようになった.カードそのものにも,カードを切ることにもとらわれないで,面白いことをしたいと思う.


某日
久しぶりに会った人がより綺麗になっていた.そう思ったんだからそのまま言えば良かったんだけど,照れからか痩せましたよね?って言い方したら「はっはーん,こいつコミニュケーションうまくやるための薄っぺらいTips集みたいなの読んだな,とりあえず褒めろみたいなの実践してるな」って感じたような,あるいは単に癇に障ったような反応をされて変な汗をかいた.コミュニケーションにおいてはリトマス試験紙なんて無くて,自分が水面に放り投げた石がどのような波紋を作ったかなんてよくわからない.もっと言うと,水面の方も自分が今何を思ったのか,わかっていないことの方が多い.そういう前提のもとではあれど,このことを重く受け止めなければならないと思う.結局のところ,私には愛嬌が無いのだろう.


某日
ビールにしかお金を使わない旅をすることになった.
ご飯も宿もビールを介してなんとかする.なんとかならないかもしれないが.
この夏,「通貨としてのビール」を経験できそう.ビール券ちゃうで.