my history of 2011

去年を振り返る

書いてみてまず思ったのが,自らの内面のことしか書けていないなということであった.これは私の問題点をはっきりと表しているように感じられる.周りが見えておらず,社会性に乏しい.来年は世界に興味を持ち,少しは自分と切り離して観測したいというのが大きく,深い目標として在る.私の世界は私そのもので,それはあまりにも狭い.

去年までを振り返る

さて,今年は私にとっては困難な一年だったように思う.この困難を描くには,今年を振り返る前に,その前の二年間を振り返る必要がある.大学に入って二年間,部活に心血を注いでいた.特に,次の年に行う合同演奏会を2009年9月より企画しはじめてから,持てる時間のほとんどを企画会議と練習に費やしていた.百人以上が参加し,数百人のお客様が来られる合同演奏会のリーダーとして行わなければならないことは数多くあった.共に演奏する相手方と話し合い,演奏会の方針を定め,予算を立ててやりたいことを説明する.ホールから,チケットの価格から,座席の制度から,全ての要素に一貫した志が無いと参加者を納得させることはできない.100年近い歴史のある団体であるため,全ての要素が,最善のものだと思われているのだが,これを変えることは容易ではない.しかし,普段のやり方が異なる場合には一方が思い切って変革し他方に合わせるしかない.あちらを立てればこちらが立たぬ状態に幾度と無く陥ったが,文化の違う二つの団体がぶつかり合う,このエネルギーこそが合同演奏会の魅力の一つであるし,その重要性は理解していた.これを克服するにはものすごいエネルギーが必要であった.並大抵の努力ではなかった.多くの人に助けてもらった.演奏者の一人として舞台に立つ責任に狩り立てられ,必死に楽器の練習をした.自分より上手い人はもちろん,自分より後に楽器を始めた人さえ上達している様子を見て,焦りもあれば,怒りもあった.良い音を出したい,みんなに近づきたいという純粋な気持ちの火が消えかけていた.演奏会が無事終わったが,起きた問題への対処を考えたり,得られたノウハウを来年度以降に一度決算を終えた.などと文字にすれば簡単だが,参加者の承認を得られず,いわゆる炎上を経験したりした.泥人形みたいな顔をしていることが多かった.MP吸い取れない方の泥人形な.

通院とか

気づいたころには精神を患っていた.誰にも相談は出来なかった.部活にだけその原因を求めるのは違うとは考えているし,他にも多くのストレスがあったことは間違いない.しばらくぷらぷらした後,えいっと病院に行ってみた.結果,通院することになり,その後部活からは非常に気まずい形でフェードアウトすることになった.ごくごく少数の先輩や友人には打ち明けて,心配されたが,私は申し訳なさと気まずさでいっぱいだった.私はただただ迷惑をかけてしまったということに怯えており,それが気まずさにつながっていたのだと思う.それは今でも変わらない.医師は,風邪みたいなもんだと思うように,と言った.一生付き合っていかなくてはならないかもしれない,大層な病気であることを知識として与えてくれた上で,大層な病気ではないと考えた方が治りは早い,と言った.ちゃんとご飯を食べて薬を飲んで,陽の光を浴びて,ちゃんと寝ようとした(寝られないことも多かったが).暗い気持ちが言葉になって,濁流のように頭の中を駆け抜け続けたのだが,脳のなんとかという物質が足りない,それだけなのだ,と思うように心がけた.えいっと思って行き始めた病院は,途中からえいっと思って行かなくなった.それから一度も行っていない.

焼畑農業なのはやめたい

部活中心の生活を送っていたせいか,クラスには顔見知りはほとんどいない.膨大な時間を費やした部活のつながりが消えた途端に,私の友人と呼べる人は皆無になった.これを焼畑農業みたいだなとか考えてニヤニヤした.ユーモアって素敵.積み上げたものがまっさらになった時,次に積み上げる意味があるのかと自問したくなるのは自然なことだと思う.知り合いであってもそうでなくても,たとえば喫茶店の店員さんと何気ない会話を交わす時にも,自分が薄い膜に覆われている気がしていた.その膜は人と人は分かり合えないのだ,という事実を常に私に押し付けていた.そんな時,高校の友人に飲み会に誘われてふと参加した.彼らとの他愛もない会話に私は大変和やかな気持ちになり,ずいぶんと勇気づけられた.焼畑農業を得意とする私であっても,燃やし尽くしてまっさらにしよう,とは思わない聖域があったのだ.持つべきは高校の友人だなあという話である.その後,春休みが終わる頃にははてなでバイトを始めた.新たな農地を耕して,多くの知り合いができ,大変な刺激を受ける日々であった.

高校の友人

GWの頃にも高校の友人とバーベキューをする機会があって,不覚にも公園で泥酔した私は上のような経験をぽろぽろと話した.どのような反応だったかは記憶にないが,私は話してよかったかもなあ,と思った.大層な病気ではなくて,風邪のようなものであることを真に受け入れられたような気がした.高校の友人が特別なのはなぜか.素直で柔軟だけど無知なアタマを持っていた思春期に,いろいろな初体験の不安や興奮を共有し,時にはつらい経験に立ち向う戦友になり,また何気ない日常を共に過ごす.それはたいそう強い絆で,聖域足り得る何かを持っているのだ,と信じることができた.

さいきん

それからは色々なことがあったが,風邪の記憶をいつまでも覚えていないのと同様に,私の記憶からは次第に薄れていった.「おまえは今まで風邪を引いた回数を覚えているのか?」しかし,私の苦悩は,膜に覆われているようだったという苦しい例えは,年末の飲み会で笑い話として提供されていた.私はゴールデンウィークに,あれは些細なことであったなあ,と思えた,という意味では笑い話として話したが,彼は嘲笑しながら朗々とその話をして,私に同意を求めた.そうだったんだろ,と.それを聞くと過去の自分が貶められるような気がして,呆然とした.やはり人は分かり合えない,としてしまうのはあまりにも短絡的であるが,高校時代は私にとって聖域で,決して焼けない畑であるとの考えは全くもって甘かった.思い返せば聖域だと感じられたのは,単純に普段の付き合いがなく重きを置いていないからであって,風化し,同時に美化されたからで,あれは幻想にすぎなかったのだと思う.人は分かり合えない.そんな感情を抱きながらも,私は生きている.悲しいし,情けないけれど,生きるしか無い.

今日

どんな農業をしたいのか,三が日でゆっくりと考えたい.新年明けましておめでとうございます!!!