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こし、韓国に行く(追記を少々)

韓国での話。書き損ねたものがあったので書いておく。

ジャイロセンサの仕組みについて

一口に言うと,Googleなき環境で,自分の知りうる知識と論理的思考力をもとに推論するのは気持ちいいという話である。柄にもなく小高い山に登って,周辺の夜景を見回していた時。iPhoneのコンパスを使って北はどこだっけとかやってると,水平計の機能も備えていることがわかった。水平とくらべて何度の角度なのかがわかる,という代物である。この仕組みについて,どのような原理で実装されているのかという疑問が浮かんだので,しばらく友人と話していた。

以下,Googleなき環境での議論であるので多々至らぬところがあると思うが,どうか目をつぶっていただきたい。まずはジャイロセンサかな,加速度センサかな,と考える。ジャイロセンサは角速度センサのことで,古くから飛行機なんかには搭載されていて,最近で言うとコンパクトデジタルカメラの手ブレ防止機能なんかはこの素子によって実現していると聞くけど,スマートフォンに搭載できるサイズなのかという疑問があった。小型素子を作る原理というのはどうなっているのか?また,基準からの角度は三次元に対応した角速度センサがあれば測定できるだろうけど,基準はどのように定められるのか?という疑問が残った。

また加速度センサによって重力加速度を特定し,その方向を基準とするみたいな発想については,本当に重力加速度を探知できるのか?という疑問がある。変位xについては圧電素子により実装できるかもしれないし,速度についてもそこから何か得られるかもしれない。また,変位と速度について測定できれば,単なる加速度についても当然得られるだろう。ただし,慣性力によるものや,重力加速度などといった具体的な接点,作用点を持たない力による加速度をどのように把握し,測定できるのか,さっぱり見当がつかなかった。

そこで,友人が以下のような提案をしてきた。「重力加速度が基準となるのであれば,電車の発進時には慣性力による見かけの加速度が加わるので多少は変わるはずである。置いてみよう。」「いや,そこはソフトウェアの力で無視しているのではないか,瞬時的な力はみなさないことにするのは十分可能であると考えられる。」「それもそうだ,というかそもそも重力加速度に比べて慣性力による加速度はたかが知れているから問題ないのか」というような話を繰り広げていた。我々,共に高校の物理程度の知識しかないけれど,限られた知識であるからこそ,それらを掘り起こしながら議論するのはなんとも言えない楽しさがあった。

わからないことをわからないとして放り投げるのでなく,自分の出来る限りの知識や推論で現状の最善解を導き出しておくというのは良いことだと思う。100%の推論が出来るはずはないのだからそのくらいの肩の力の抜け方があらゆることにとってちょうどいいだろうし,100%が出来ないからといって全くやらずに諦めればいいだろ〜とするのも情けないからだ。



俄かに思い出された森鴎外

街中のポスターにいるわいるわ。美女である。女優さんやモデルさんであろう,とにかく綺麗で,綺麗なんだけど作り物なんだろうな,という先入観を絶対に持ってしまうような完成された顔がずらずらと並んでいた。私はそれを見ていて,奇妙な感覚に陥った。美しさの基準値が導入されたとしたら,自分よりはるかに高い数値なんだろうなという見上げる思い。それは当然ある。「なんで同じ土俵に立ててるん?お前は書類審査で落ちてるで?」という声はこの際聞こえないふりをしておく。見上げる思いと同様に,整形がまるわかりで見下してしまうようなきらいもあった。ドーピングしてホームラン打たれましても...少年野球におけるツーベースのほうが尊いし認めるよ,などと言いながらパンチパーマになって少年野球の監督をやりかねない構えはあった。

現に,私が見かけて「あれは度肝抜かれるかわいさ!身の毛もよだつ美しさ!」とCGみたいな人を指して言うと(私としては本当に美しいと思っていました。半年に一度見かけるかどうかというレベル)友人はジロジロ見た挙句,「なんや,大蛇丸やん。ナルト思い出したわ」などと言っていた。これは好みの問題かもしれないが,とにかくこの世のものとは思えない美女が一定数いる街ではあった。

そこで,ある出来事が思い浮かんだ。福岡は中洲のジャズフェスタのこと。さっきまでステージ上でしっとりしたジャズを歌っていた女性と,隣でギターを弾いていた男性を,何度も見たのだ。別のステージを見ていると,そばを通ったので見かけて,別のステージでピアノを聞いていると,前を通る。川に向けて歩いていると,後ろから追い抜かされる。先ほどまでの他のメンバーはおらず,ふたり仲良さそうだった。

ステージが5つほどあり,数千人規模の催しなのに何故か幾度と無く目に入った。白地のTシャツにピンクと青でなんか絵が書いてあるようなやつで,タオルを二人とも首に巻いていた。男性は黒髪でパーマがあたっていて,女は派手目な化粧で,セミロング中身を巻いてボリューム感のある髪型をしていた。私は羨ましいようなそうでないような,なんとも言えない気持ちでそれを見ていた。私も手をつないで歩いていたので,男女で手をつないでからに,というような気持ちではないはずだ。今思うと,あれは私にとっての伊豆の踊子だったのかもしれないな,と思う。

伊豆の踊子において"僕"は,踊子に対して軽蔑と愛情と情欲,それに伴う罪悪感,自己嫌悪などが入り混じった視線を送るが,次第に情欲と軽蔑が共に薄れて行く。非日常だからこそ卑俗に思われる部分に接ることでそれを理解し,非日常だからこそ神聖と捉えられ得る点についてもやもやを残しつつもこれを受け入れる。最終的に"僕"は,踊子に接近し,非日常を,大きく吸い込みながらも卑俗あるいは神聖だと断定することなく,自身の日常に戻って行く。