自分は自分であるというただ一点で何よりも尊い。についてのお話

この増田(「馬鹿ね、そんなくだらない理由で人を殺したの」)に対して思うところがあってブクマしたところ、

「馬鹿ね、そんなくだらない理由で人を殺したの」

誰を憎めばいいですか→自分ですってのと同じロジックで「そのままでいいんだよ」って誰が言うんですか→自分 とならないのがふしぎ。自分は自分であるというただ一点で何よりも尊い。/書いた <a href="http://goo.gl/5QsxTy" target="_blank" rel="noopener nofollow">http://goo.gl/5QsxTy</a>

2015/09/28 22:44
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続く増田(続:「馬鹿ね、そんなくだらない理由で人を殺したの」)にて以下のように言及された。

かコメントで、『誰を憎めばいいですか→自分ですってのと同じロジックで 「そのままでいいんだよ」って誰が言うんですか→自分 とならないのがふしぎ。』 と言ってる方がいましたが、おっしゃる通りです。 自分が自分を一番認めてあげないといけません。 でも、そんな当たり前のことが上手く出来なくて苦しんでる私のような人もいる。 どうか心の片隅でいいので、それを覚えていてくださったら嬉しいです。 そして、もしこんな風に苦しい人がいれば「こうやれば楽に生きられるかも」 と提案してあげてください。

元増田の書いている殺人犯がうんぬんという話にも増田の考え方にもあまり触れられないし、ましてや「こうやれば楽に生きられるかも」なんてものは何も書けないと思うけど、よい契機なので、現時点での自分なりの結論を書く。

「自分は自分であるというただ一点において、何よりも尊い。」とはじめに真顔で言いきったのはいつどこでだったか、記憶力の悪すぎる私にしては珍しく鮮明に覚えている。2012年のまだ寒かった時期に、自分について気になりだして、友人の家で何かを遅くまでよく話していた。

そこで、「自分は自分であるというただ一点において、何よりも尊い。」と真顔で言ってから、いろいろなことが言語化されて私の顔に張り付くようになった。顔に張り付いたものの中には、そう言い切れることこそが今まで周りにいた人々が愛情をくれていて、その愛情を受け止めている証左なのだよ、という友人の指摘や、が含まれる。

その少し前に、家族の愛をどうのこうのと書いて*1読者を傷つけたことがある。

悲しみのコメントはダイアリーからブログに移行する際に消えたのか(そんなことはないか)どうかわからないけど、今は見れない。 私は、

  • 家族に愛されてきた自覚がある人と、自覚がない人がいて、その隔たりは大きい
  • 家族との関係性が人間性に及ぼす影響は大きい

ということを書いたつもりだった。愛されてるからなんだ、愛されていないから何なんだ、ということについては特に評価していない文章のはずだった。また、愛されたかどうかと、それを自覚しているかどうかは別の問題で、後者についてのみ言及している。今読んでも「なんでわざわざこんなこと書いたんだろうな、アタリマエのことではないか。読みにくいし。」と思ってしまう内容であるが、それでもその人の逆鱗には触れたらしい。この文章を読んで、親から愛されていない人だっているんだぞ、というふうに傷つく人については心の底から不思議に思うと同時に賢い自覚があったはずの自分の想像力の至らなさに衝撃を受けた。今思えばアタリマエのことを藝もなく書き散らした文章があって、その内容が癒え切らない傷の近辺に触れるものであれば悲しくなる気持ちはわからなくもない。その節はごめんなさい。

小さい頃から誰にも嫌われている、否定されていると思ったことはなかったし、見た目が安岡力也ではないし実家が大金持ちでもないのに、不思議とイジられたことがなく、避けられることもなく、過度に持ち上げられることもなく、やさしい世界を過ごしてきた。逆に、そのことで悩んだりもしていたほどである。上で述べた以外にもやさしい世界が狭い世界だったのだなあと思わせるような出来事がいくつか起きて、そこでようやく自我が芽生えたようなところがある。自分とはなんだろうかという疑問に陥り、昨日の自分と明日の自分は同じなのか、自分のこの顔を変えても自分であり続けるのか、自分を構成する要素である性質や思考回路や体の一部を取り除いても自分なのか、それはどこまで取り除いてもそうか、など考えていた*2。その際にも、不思議と「自分は、自分であることから逃れられない」というのは受け入れていた。その上で、他者との間の差異の集合が自分を自分たらしめているのだ、という理解をしたものと記憶している。

自分はただ自分であるというただ一点だけで...に繋がるべき適切な言葉は、「尊い」でないかもしれない。当然すぎることではあるが、世界にとって自分が取るに足らない存在で、自分が優先されるべきだとは思わないし、自分より素敵な人・すごい人・尊敬できる人はいくらでもいる。そうでない部分が見受けられる他者を傷つけたりないがしろにしてよいはずもない。ただ、それでも「尊い」が今の私にとってはしっくりくる言葉である。

そこには、他者への敬意がある。謙虚な心で、事実として自分に欠けている部分や至らない部分は受け止めよう、と思う。そこは、客観的な指標であり、客観的な指標は複数ある。様々な指標と様々な他者がいて、自分はその上でバランスをとる。どの指標を大事にしていて、そのバランス感覚こそが思考の癖であり、思考の基盤となっていく。インターネットをやっていると、バランスが崩れてしまっている人を見かけてしんどい気持ちになる。しんどい気持ちにはなるが、そういうものだというふうに理解している。

そこには、他者への諦めがある。自分と違う思考回路の持ち主がいる、とは違う次元の話で、いくら欲したとしても、自分は他者へはなれない。親と自分は違うし、愛する人と自分は違う。だからこそ、人は他者と関わり、愛して、知らず知らず社会を築くのだと思う。諦めの他例として、どんなに言葉を尽くしても、他者を変えることはできないということが挙がる。他人がそれまでの人生を通じて培ってきた価値観を一長一短で変えることなんてできるはずがない。手を取り足を取り何か行動を起こさせようとも、うまくいかない。そもそもそれぞれの人の身の上(初期値)が違っていて、日々身にふりかかる外乱も当然ながら異なる。さらにはそれぞれの外乱が起こった時にその人の中で生まれる解釈の処理方法も様々である。人という関数は、初期値が異なり、各入力が異なるため出力が異なるだけでなく、出力が異なった結果として、出力が人と世界の関わり方を規定して再帰的に関数が変わっていくために、2つとして同じものがない。

ここまでの話を一言で言うと、自分と他人は違うのだ、ということであり、いわゆる母親の「よそはよそ、うちはうち」そのものかもしれない。他者に対して、ほどよい敬意を持ちつつもほどよい諦めを得たとき、自分と、そして他者が急激に色鮮やかに見えてくる。その地平に立てたら、増田の言う通り、たった一言が他人にとって途方も無い救いとなり、大きく他者を変えてしまうことも無いとは言い切れない。だから私は今日、何か書いてみようと思ったのだ。

こどもの絵の展覧会がオススメなのでみなさん是非行っていただきたい

私は駅構内、モール、百貨店などで時折開催される、こどもの絵の展覧会が好きだ。あらゆるところに力の均衡が見られる世界において、子供を中心としてそのせめぎ合いに抗する重力場が生じており、均衡が破れた状態を感じることができる。本来なら、こどもの伸び伸びした発想や表現に注目するべきなのだが、親とこども、先生とこどもの間で作られたであろう作品から、どうしても歪みを感じてしまうのだ。

今回は、大都市なら年に一度は開催されているように思うので、是非行って欲しい。その思いを込めて、去年京都駅で見かけた展覧会の模様をお伝えする。変なブログに我が子の名前が掲載されているのもどうかと思うので、名前はカットした。


まず、ただただ素敵なものから。


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ダイナミックな石庭。



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点描風の下鴨神社



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うますぎる。さっすが小6。



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かわいいけど変わった技法を使っているように思う。小2の作品。



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丁寧に写実していてすごいと思う。



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これ、ハンターハンターを思い出す色の使い具合だと思いませんか。



小学生のものとは思えない作品、あるいは小学生らしすぎる作品、どちらも素敵だと思う。



続いて、タイトルを先生が付けているのではないだろうかと邪推せざるを得ない作品。

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以仁王を奉る拝殿の彫物の動物は、境内を守るようです。」



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「いこいの森と力強いとりいをもつ下鴨神社は、京都の宝物。」



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「車イスの人もみんな二じょうじょうに、こられますように」



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「日本の四季が生み出す紅葉でさらに輝きを増す金閣寺




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「屋根屋さん、宮大工さんの思いと苦労の結晶、宇治上神社




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「世界中の人々が見に来る清水寺、京都の自まんのお寺です。」




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「復活した祇園祭、後祭。大船鉾に彼らの思いを。」




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「迫力満点五重の塔、サクラを手前において遠近感を出しました。」


書店を徘徊していてうっかりラノベ売り場に飛び込んでしまった時の気まずさのようなものを感じられる。これが、作者が小学生であるがゆえにタイトルにいろいろ言いたいことを詰め込みすぎた結果なのか、先生や親による何らかの圧力があったからなのか。あくまで想像しかできないが、いくらでも想像ができてしまう。


最後に本命を。これ。


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顔の左右を塗り分けて影を表現し立体感を出し、細やかな装飾を丁寧に描き、油絵のように厚く深みのある塗り。塗りが本当にすごくて、生で見ると特に、他とは別格だとわかった。この腕前で、小学2年生らしい。いやはや、末恐ろしいとはこのことだ。この作品からは、いろんな意味で目が離せなかった。親が上手いのか?いやいや天才の可能性だってあるぞ?兄弟が手伝いすぎたのでは?様々な思いが心中に去来した。

せっかくなので近日中の何らかの展覧会をおすすめしたくて検索したのだが、私の検索力の低さゆえ適切な催しが見つけられなかった。そういえば、私もいつも展覧会の存在を知っているのではなく、偶然通りがかって吸い込まれてしまうのだった。百貨店の催事場で3,4日間やっていたこともあれば、ゲリラ的にごく小さなスペースで慎ましくやっていることも多い。どこかしらで開催しているのを知ったらぜひ足をとめてひと目観て、重力を感じていただきたいと切に願う。