忘却を肯定する

忘れるのは怖いし、忘れられるのも怖い。

僕は特に忘れっぽくて、友人に「ほら、あの時さ...」と言われてもそんなことあったっけ?と感じることが多い。エピソード記憶ができない。良いこと悪いこと、されたことしたこと、思い出、発言、行動、全てにおいて記憶力が悪い。


人の顔だけは覚えていて、中高で特に絡んだこともない先輩後輩を街中や夜行バスやらで発見できたり、一度だけ行った店の店員を別の場所で見かけたらわかる。生まれてくる前にルイーダの酒場かそこらで記憶に関するパラメータをいじる機会があったとして、全部人の顔につぎこんだんじゃないかってくらい。


何かをした思い出だったり、そのときの質感、呼吸、感情みたいなものは煌めいていて、出来ることなら忘れないでいたい。何でもかんでも忘れてしまうこと、これは非常につらい。


ふと、久しぶりにユニコーン「すばらしい日々」フジファブリック「記念写真」を聞いてみた。


君は僕を忘れるから

その頃にはすぐに君に会いに行ける

すばらしい日々(奥田民生)


記念写真を撮って僕らはサヨナラ

忘れられたなら僕たちはまた会える

記念写真(志村正彦)


これらの歌詞をどうも理解できなくて困っていた。というか今とは別の解釈をしていた。高校の卒業式はそれまでの人生で最も大きな別れの象徴だった。そんな卒業式を迎える時期にこれらの歌を聞いていて、「昔のことを思い出す暇がないほどに日々を一生懸命生きることこそが肝要」という歌だと思っていた。別れは避けられない。だから、悔いたり悲しむのではなく、別れてよかったな、と肯定出来るように、そういう意味で再会を喜べるように、お互いちゃんと生きよう。振り返りながら走るのではなく、まっすぐ前を向いて腕をしっかり振って走ろう、と。


別れの結果として、忘れたり忘れられたりすることは怖い。心の中での死を迎えているのに等しい。人間がいつまでたっても死への怖さからは逃れられないのと同様に、忘却への怖さから逃れられはしないのだろうけど、その過程で何か起こる、良いことも悪いこともどちらも含んでいるが、何か起こる。それが重要だ。

そう、忘れてしまうことを、肯定的に捉えてもいいのだ。それも、前を向いて突き進むために過去のことは忘れてしまおう、というような主体的であり暴力的であり打算的ともいえる文脈ではなく、思い出すときに何かの反応が生まれるし、思い出すには忘れる必要がある、といったもっと素朴で安直な文脈で。

過去のことはおおよそ良い思い出として語られる。負の感情は思い出す際に記憶のふるいにかかり、語られる際にも言葉のふるいにかけられるからである。ふるいにかけられる、よりもモザイクがかけられる、と言う方が適切かもしれない。このような記号化、美化もまた「何か」のひとつと言える。さらには単にノスタルジアに浸って涙するのもそうだろう。臥薪嘗胆、ずっと記憶を手中に収め、弄んでいるのでは「何か」は起こり得ないのではないか。

と、いうことで、私は保存するためではなく、思い出すきっかけとして日々を記録したいのかもしれない。