人生に目的があると言う奴は狂人だ.私も狂人だ.みんな狂人だ.(旅行記)

旅の行程はやまかつのブログに詳しいので参照されたい.写真も内容も充実した良い記事です.

「旅には人生のすべてが詰まっている」
「人生は途方も無い旅である」
というような手垢にまみれた警句がある.途方もない昔からある.
かつては確かにそうだっただろう.
人生は不条理にまみれ,一寸先が闇かどうかさえ不明だったであろうし,もう帰ってこれないかもしれないという不安を旅は孕んでいた.
しかし現在の人生は,旅は,本当にそうか.足元を見れば作りの良い靴とアスファルトが見える.

旅をするのが苦手だった.
というよりも,どこかを訪れることを旅と表現することへの抵抗があった.誰もが,生について,死についての考えから逃れることはできない.
その中で,「旅行者」として振る舞う人々は,旅をしたことで,自分が何者かになったような,深淵な何かを悟ったような気持ちになる.
何気なく過ごしてきた日々の裏側を見据えたつもりになり,分かり合う.むず痒くて仕方なかった.ツアーガイドに率いられなくとも,目的がある時点で,無機質でパッケージングされた旅であることには違いない.旅をして得られるものは,確かにある.しかし,それは旅をしないと得られないのか.
事実,日常はこんなにも驚きと契機に満ち満ちているのだ.


倉敷の駅に降り立った私達は,挨拶して,

「ご飯食べました?」
「食べたわー」
「あら残念,お二人と食べたかったです」
「おごってくれてた?」
「いや,その逆ですわ…」
「!?」
「かくかくしかじかなのでパンを!パンを恵んではいただけないでしょうか.ビールは差し上げるので」
「!?」


たこ焼きを買ってもらえることになった.倉敷の地で,京都から来た私達が,徳島から来た人に,本店が大阪アメリカ村のたこ焼きを,ごちそうになる.自分がお願いしたことではある.それでも頭がくらくらした.彼女たちは尚更であろう.たこ焼き屋の列に並んでいるあいだ,世間話のようなものをしてはみたが,こいつらは一体何なのか,なぜビールを持っているのか,という訝しげな表情がずっと張り付いていたのが証拠だ.そのうちに業を煮やした彼女たちは,「はい,これで買ってね」千円を渡して立ち去った.おかしさとか,臭みのようなものを見抜かれたのだ,そう思った.おごっていただくのはなぜか,なぜおごっていただくのか,そういうところを私は疎かにしていた.今まで味わったことのない不思議な味のたこ焼きを食べながら「ビール以外にお金を使わない」「ビールをおごる代わりにおごってもらう」というのがどういう発想から来たのかを考えてみた.

私が欲しかったのは,「どうなるのかわからない」旅に他ならない.明日まで旅を続けられるのか,はたまた続けなくてはならないのか.
今日はご飯を食べられるのか.宿を得ることができるのか.次にどこに向かうことになるのか.どんな人と出会い,どんな話をできるのか.振り返ってみると,全てがぐちゃぐちゃになった状態を実現させるために,この馬鹿げたルールを自らに課したのだった.そのことに自覚せぬまま,ルールを絶対的なものとした,そのしわ寄せとして,大きな罪悪感や彼女たちの悲しそうな表情がある,そう思った.自覚していないものを他人に伝えようがない.

「お昼食べちゃった」ときたら,夕方までお買い物付き合うよ,と返してもよかったし,話してくれたお礼を言って,お腹を空かせていて幸せそうな家族連れに声をかけ直してもよかった.彼女たちの表情が,すべてを象徴していた.






失意のまま倉敷を後にした我々は,尾道へと向かった.東尾道駅までは平地がちで,坂のさの字も見当たらなかったが,急に尾道らしくなった.
初めて尾道に訪れる私が尾道らしいと感じるのもおかしな話であるが.右手に坂があって,建物がひしめき合っている.その中でも寺が多く,目立っていた.倉敷に比べて観光地然としているが,空気は弛緩していたように思う.駅前が広々としていて,その割には人が少なく,否が応でも旅行客らしき人が目立つ.

猫の街と言われるそうで,実際にそのことを聞いて10分後には多くの猫を路地で見かけた.暑さにうなだれていた.塀の上に寝転がっているものもいて,投げ出した肢がちらりと見えた時にものすごい日常感を感じた.正しくは,彼らにとっての日常に足を踏み入れた気がした.多すぎる因果か,彼らは仁義なき戦いを繰り広げているようで,目や鼻に傷を負った猫がたくさんいた.人間に対しては,怖がるでもなく,冷たく無視するでもなく,ゆるやかに距離をとっていた.弛緩した空気は猫だけでなく地元の方も発していた.駅前らしからぬのんびりとした様子で,観光客は地元の方から浮き上がって見えた.それと同様に,人が住まなくなって荒廃しきった家屋や,20年前の姿も20年後の姿も容易に想像できてしまうような,仮死状態の商店が,街から浮き上がっていたように思う.割れつくした窓ガラスや,ゴミでいっぱいの中庭や,うず高く積まれ,埃をかぶった塩ビパイプの山を見る度に,これは私だ,私に相違ないのだ,と思った.

帰りに,尾道駅前で東京から一人旅をしている男子学生に声をかけ,パンを1つずつおごってもらった.代わりに広義のビールこと,缶酎ハイをおごってさし上げた.逆方向だったが彼の乗る電車が来るまで他愛もない話をした.やはりビールは通貨たり得ないのか.本当にビールしか買えない旅がしたかったのか.私はビールの何なのか.電車内で読んでいたC・ウィルソン「アウトサイダー」で触れられたこんな話を思い出した.誰も逃げられない,究極の牢獄を作ることになったら,どうすればいいか.そのためには,囚人に,自らと牢獄を同一視させれば良いのだ.牢獄は牢獄でなく,あくまで自らの一部であると.

広島駅に着いてから,少し歩いた.時間にして1時間程度であろうか.けれども長い長い旅であった.川を眺めながら多くの人とすれ違った.倉敷や尾道に比べて人は多いが,みな閉じていた.いや,閉じているのは自分だった.気がつけば広島焼きの店にいて,ホテルを予約していた.
ホテルに着いてすぐに10時間眠った.そこで旅は終わった.

「やりたいことのない旅」と考えてはいた.そう記しもしたが,誤りであった.◯◯をやるために旅に出る,という心理を持ちあわせてはいないにせよ,旅に出てしまった以上はやりたいことはある,私はそういう人間であった.自分で把握できていなかった.旅では,非常識を常識とする,ということが起きる.価値観を揺さぶるというのはそういうところだろう.訪れた街においても,普段から見慣れた街においても,あなた次第で非常識を常識にすることはできる.そこに差異はあるだろうか.


何が起こるかわからない人生にしてみたい.だから人と違うことをやる/同じ事をしたくない.この理屈は一見強力に見える.しかし本当なのだろうか.旅をする前も,旅の最中も,そして今も,ずっと考え続けている.