料理をする人やリストカッターケンイチくんならわかると思うけど、包丁を押し当てるだけでは、ものは切れない。重力方向に力を入れても切れない。水平方向に押すか引くかして初めて切れるのだ。柔らかくて大事な部分に包丁を当てたとて、グッと押し当てたとて、押し引きさえしなければ、皮が破れ、血が流れることはない。
以前私がハマっていた表現に、「包丁を振り回す」というのがある。社会や人に影響を与えたり、言葉を投げかけたり、とにかく何らかのアクションを起こすのはおこがましいことで、本来はすべきでないことである、あるいは細心の注意を払う必要がある。そういう風に考えていたのだろう。いずれも意味がちょっと良くわからないけど昔の私はこんなことを言っている。包丁好きだった。
愛するひとがいますかって話で 愛し方の問題で 包丁を持つ勇気が必要やったりする すなわち自分の間合に入れて同時に相手の間合に入るということ その中であえてぐちゃぐちゃにしないという関係こそ愛なのではないかしら
— こーしー選手 (@cauchy_6) 2012, 8月 18
包丁持ってるのに切らないのと包丁持ってなくて切らないのはちがうんだよ!!!よよよよよ
— こーしー選手 (@cauchy_6) 2012, 8月 18
人に話しかけようと思わない現状は、老人が豊かな、しかし有限の思い出を掌の上に置き、微笑むのと似ている。愛に満ちてはいるが何かが欠けている。少し待てば、逆に人に話しかける時期がくるのだろう。包丁を振り回すようにして生きる。この振り幅が大きい自覚はある。どうすることもできないけれど。
— こーしー選手 (@cauchy_6) 2013, 1月 17
包丁振り回してる間は正気になっちゃあいけねえ。没入しなければ。
— こーしー選手 (@cauchy_6) 2013, 4月 22
マシンガンを街なかで構えていた人間ではあるが、とにかくアクションを起こすことを忌避していたのだけれど、最近はそうでもないかもしれないと信じられるようになってきた。ひとまず、包丁を押し当てるような感覚で生きていこうと思うし、読む人に包丁を押し当てるブログを書いていこうと思っている。包丁を振り回すよりも、懐に忍ばせ続けるよりも、それは藝のあることだと思う。