「NO MORE 映画泥棒」によるチクチクした痛みについて

「最後の命」という映画を観た。映画自体の感想を語りたいところだけど,今日はそこまで辿り着かない。前段階として言っておかねばならないことがあるのだ。NO MORE 映画泥棒というあの映像についてだ。近日公開予定の予告をいくつか見終わって場内の明かりが落ち,観客が呼吸を改めた時に映像は始まる。映画泥棒こと妖怪カメラ頭がスーツを着て気味の悪い踊りをして,映画を違法撮影する。妖怪パトランプがこれを取り締まる,というものである。単館上映を除き,あらゆる映画館で幾度と無く観てきたこの映像であるが,元々は一時的なキャンペーンであったと記憶している。はじめて見たときはこれほど不快ではなかったように思う。小気味良いビートから繰り出される奇妙なダンス。カクレンジャーの敵かと思ってしまうような強烈な容姿。ユーモラスに警鐘を鳴らしていて,それほど嫌だとは思わなかった。むしろうまいインターフェイスによって上手に注意喚起できていることを好ましく見ていた。それが,長年同じ画を懲りずに見せられているうちに不快感がこみ上げてきた。喉のチクチクした痛みのような,致命的ではないのだけれど生命力を低減するような不快さ。その理由は少なくとも二つある。

一つ目は,違法撮影するつもりがなく,海賊版DVDを観ようとも思ったことがないであろう多数の人を疑っていること。どちらかと言うと映画館に足を運ぶ方だし,けれど海賊版DVDを買ってまでいろいろ観たいほど映画大好きマンでもない(映画好きが海賊版DVDを観ることが良しとするとは思わないけれど)。私よりも映画好きで,何なら映画業界にお金を落とそう!とか思っておられる方もいるだろう。足繁く通っている方々こそのボディチェックを無遠慮に行うような,この映像を幾度と無く見せられているのだなあと考えるとため息を通り越して喘息が出そうになる。いくらズンドコズンドコ小気味の良い音楽と踊りというインターフェイスで包んでいるはいえ,やっていることは味方を背中から撃っているようなもので,この点についてキャンペーンの企画者(映画業界のお偉いさんなのだろう)は自覚的なのだろうか,と疑問に思う。

二つ目の理由は,肝心の映画泥棒防止に何ら貢献していないと思われることだ。我々善良な一般市民を巻き添えにしてでも,映画泥棒とやらの被害を減らすことができていれば良いのだが,どうも功を奏しているとは思えない。情に訴えかけても意味が無いことは明らかである。違法撮影をする人はいわゆる普通の感覚の我々からすると"神経を疑う"べき,ねじれの位置にある人達なのだから。前提としての考え方が真っ向から異なる場合に,そのことを踏まえずに働きかけようとすることほど滑稽なものはない。私はシェアハウスに長らく住んでいて,いろいろな人間が弾性衝突するのを見てきた。例えば,この世には掃除ができない人間というのが存在する。掃除アビリティを持たない人間に対して,掃除をしなさいと言っても意味は無い。掃除ができないのだ。できない理由を考えて,障害を一つ一つ取り除いていきましょうね,というのも何ら効果が無い。理由など無く,ただできないのだ。考え方が入り口のところから違っていて,全くの別次元であるのなら,分かり合おうとしてはいけない。人と人がコミュニケーションをするような手段を使ってはいけない。自然の脅威や,獣害のように扱わなければならない。防御と先延ばしか,徹底的に根絶するか,住み分けるか。話し合いや成長を見守るということは人間相手にしか通用しない。戸を作っても壊されて,柵を作ってもよじ登られる。斜め上からぶっ叩かなければならない。

もちろん,ねじれの位置にあっても人間は人間,カメラを持ってニット帽をかぶりスクリーンの前に座る人(コナンの黒い人を想像してください)がある映像を見て感情を本揺さぶられ,カメラに手をかけることなく2時間眼前の光に没頭し出て行くことがあるのかもしれない。そのような美しい光景がこれまでになかったとは言い切れない。だが,彼らは伊達や酔狂でやっているのではない。単純にお金儲けのためにやっているのだろう。映像を加工し,流通させる組織に雇われて派遣されているにすぎない。そういう人が多少胸を痛めたところで,何になるというのだろう。いずれにせよ,スクリーンで何とかなる問題ではない。現実はそううまくはいかないし,だからこそ映画を観るのだと思う。

このように,NO MORE 映画泥棒という映像は,映画泥棒を止めることができず,市井の人々の気を削ぐことしかしていない。初めて妖怪カメラ男を見た時の驚嘆が失われた今,なぜ未だに放映されているか。唯一,効果があるとすれば,違法なのを知らずにやる人を減らすというものだけど,それは戦争の後に一輪の花が咲いたよみたいな話で,だから良いとはならない。屍の山が築かれているのだ。文句を言ってばかりなのはどうかと思うので,斜めからぶっ叩く方法として何がふさわしいかどんなものが良いか考えてみようと思う。(もちろん,上でも述べたがスクリーンでできることには限界があって,最適解は映画館の外にあるのは承知のうえで)

一つめの理由を改善するために必要なことは,メインメッセージの変更である。視聴者の極々大部分が映画泥棒など夢にも思わないのだから,"撮影するな",ではなく"撮影を見かけたら通報してくれ"とすればよい。「監督以下スタッフ,役者,配給会社等々,彼らは映画を愛している。堤幸彦は除くありとあらゆる関係者は魂を込め,寿命を縮めて映像を作っている,映画館に足を運ぶ皆のためにに良い映画をお届けしたい一心で。暑さ寒さといった過酷な環境に負けず,怪我を覚悟でアクションをして,必要ならば建物を壊した。。構想数十年みたいなのもざらにある。そんな映画を違法に撮影しアップロードすることは犯罪者であることは当然,魂を汚す行為である。映画は多くの製作者にとって何にも代えがたい命であって,その命を掠め取って換金している点で悪魔と呼ばれてしかるべきだ。視聴者の方々はこれから映画を観て勇気をもらったり,励まされたりするだろう。明日からも頑張ろうと思えるだろう。映画泥棒をしている人を見かけたら,その勇気を少し振り絞って,係員まで通報してください。」席から立たずに通報できる手段を用意すればなおのこと良い。 "the force will be with you. "である。

二つめの理由を改善するためには,いろいろなやり方がある。「妖怪カメラ顔野郎のあの人,中の人がテレビに出たりしていましたがあれは嘘です。本物の妖怪カメラ顔野郎は,実際にあんな顔なんです。彼は昔違法撮影をしていた人です。ある時捕まって,私刑として頭をカメラに変えられてしまったのです。映画業界からは拍手喝采でしたが,一方でやりすぎではないかとの声も増し,人体改造を主導した博士は糾弾への対応に追われました。ノイローゼになった博士は自らの頭を警報器に変え,人であることを辞め,一生をかけて違法撮影者の根絶に注力することを誓ったのでした...そんな二人はもう何も考えることはできず,ものも食べられず,滑り台を滑ることもできません(顔がでかいから)。撮影中を表すカメラの赤いランプが灯ったら,コミカルな踊りを繰り出すしかできない体に改造されたのです。次にカメラ頭になるのは,あなたかもしれません。NO MORE 改造人間... NO MORE 映画泥棒...」みたいな恐怖を煽っていくスタイルもあれば,
「実は,違法DVDを観ればギリギリどの映画館でいつ放映されたかがわかる符丁がすべての映画には仕込んであります。もしあなたが撮影者だとしたら,DVDが流通して1週間は身を隠していたほうが良いかもしれませんね。我々映画業界の者は,流通するDVDからなんとしてでも特定し,監視カメラのデータからあなたの顔を割り出します,次回からはその顔写真をもとに,何があっても捕まえます。この妖怪カメラ野郎は決してあなたの顔を忘れませんよ!(着ぐるみもったいないから再利用してみました)」というSF的管理社会スタイルとか。

とにかく,今後も「NO MORE 映画泥棒の動向」は注視し続けたいし,「何かを禁止,注意喚起する広告物や映像のあるべき姿」はしばらく私の感心事の一つになるだろう。そう思いながら,今日もJR西日本による,鉄拳のパラパラ漫画を用いた転落事故防止の映像なんかを見ている。あ,「最後の命」は男女で見に行くとしんどいからお気をつけください。

大阪ブロガー万博に行ってきました

 2012年以来まともに更新していない私だが,11/2(日)に催された大阪ブロガー万博2014に参加してきた。2012年というとロンドンオリンピックの年で,まだ民主党政権であり,免許はとっくに失効していておかしくない時間が経っている。ブロガーが免許制でなくてよかった,と胸をなでおろしながら参加登録をした。受付で黒服のセキュリティに戦闘力(ブクマ数やPV数)を測定されてつまみ出されそうになったら食い気味で「永遠のブロガー見習いですから!」と絶叫する心の準備をして,会場に降り立った。結果,ボブサップじみた人はいなかったどころか,非常にフラットな環境で交流を楽しめた。みんなブログを書いているという共通点があることと,それ以外に共通点はなく,全然異なる思考と嗜好を持っていることの両方が波状的に効果を及ぼしていた。

 多くの人が集まる場ではボブサップが現れるものだと思っていたし,みんなボブサップになりたいもんだと思っていた。主催をしてくださって,多くの人に声をかけて回ってくれる,みんなが知っている人。知られていることは価値であり,人を集めることは錬金術である。その人は知ってか知らずか高みに登り,有象無象がそれを見ることになる。呼ぶ側と集まる側の差はあまりにも大きく,呼ぶ側へ注がれる視線には様々なものが混じる。このことに気づいたのはごくごく最近のことだ。あちこちで仲人のようなあるいはホストのような役割を果たしているエネルギッシュな人,部族間抗争を起こしかねないほどにサークルの中と外を厳格に区別する人,イベントを主催して収益を上げる人などを横目で見ていて,徐々にそう思うようになった。あとは就活などで東京に行き,東京の人と話すことでも得られた知見であった。切符持つ人・持たぬ人を純然と区別し,無名のままだと内蔵を引きずり出される。有名な奴は偉い,偉い奴は強い,強い奴は偉い,ブクロサイコー。そんな東京。(お前,東京の何を知ってんねん。無名が無名のままでいられる,稀有な街だと言えるかもしれないのに)

 集団は集団であるだけでエネルギーを生む。そのエネルギーを欲しがる人や,自分の力として振り回す人が現れるのは必然である。今回の大阪ブロガー万博においては,このエネルギーの扱いに細心の注意を払われていた。それは主催の方々が,運営や主催を名乗らず,あくまで徹底して"言い出しっぺ"と自称しておられたことに象徴される。みんなが主役で,フラットに,オフ会を作り上げたいという思いが隅々まで行き渡っていたし,その細心の注意を払われていたように思う。この背景にあるのが美学なのか人柄なのか,何らかの意図なのか,残念ながら聞きそびれてしまってわからない。ただ,私は大阪らしさを心ひそかに感じた。

 また,みんなで作り上げたオフ会とはいえ,"言い出しっぺ"の方々の準備やホスピタリティのおかげで会が成功したのは紛れもない事実であり,感謝しているのでここで改めて心よりお礼を申し上げておきたい。ありがとうございました。また,ブログについて皆さんから得られた刺激はこれから徐々に,ブログを通じて示していくつもりだ。本当にお疲れ様でした。ブログサイコー。

お久しぶりです

今年度こそブログをしっかり書きたい。自分自身の足跡をつける。今まで似たようなことを言いながらも二日坊主を繰り返しておきながら,改めてこう思うのは理由がある。ここ一年で,あるいは数ヶ月で,考え方やこうありたいみたいな姿から,食べるもの,陥りがちな感情,背骨の具合,日頃の行い,じゃんけんで出しがちなものに至るまで,ありとあらゆるものが大きく変わってるのを自覚してるから。変わりだしたのが最近なんじゃなくて,自覚しだしたのが最近なんだと思う。人は常に,したがって私も常に,変化し続けている。去年の自分とうまく話せる保証さえない。たったそれだけのことに大層驚いている今日このごろ。いやー,それにしても昨日の自分と明日の自分が違うことが往々にしてある,と自覚のようなものはアイデンティティが揺らぎなのか,あるいは確立なのか。ここまで書いてわからなくなった。これを突き止めて納得するには,きっと今までの自分の考え方と今の考え方を整理して比較しなければならないのだろう。それはそうと,じゃんけんで出すグー・チョキ・パーの総称もわからなくて悶えている。ハート・クラブ・スペード・ダイヤの総称がスートなら,グー・チョキ・パーの総称は何なのか。かつて私には,東京の人は与えられたカードをいかに効率よく切るかばかり考えているように見えたし,それは今でも変わらない。ただ,ポーカーなのか大富豪なのか知らんけど,そういうゲームの場に知らず知らず乗っていることは少なくないとも思うようになった。乗りたくないとぼんやり思っている程度では,多かれ少なかれ乗ってしまう。その前提の元でなら,自分に与えられたカードが何なのか把握していたり,その活用法について考えを巡らせるのは何らさもしいことではないし,しんどいことでもない。それどころかむしろ全うなことにさえ思える。とりあえずみなさん,お久しぶりです。

2012年に思っていたことメモ

ダラダラ振り返ってみた。
草稿どころかメモです。もっと肉付けしたい。
 
 

睦月

内田樹の講演、良いプロレスラーっぷりを目の当たりにする。試合巧者。
テスト
他はあんまり記憶ない

如月
テスト
Ruby合宿に行き意識が高まる。この高まった意識を私は何かに役立てられたか?(反語)
母と西洋厨房いとうに行く。
ルームシェア終わり、荒廃し切ってたと思う、1,2月の記憶がないのは単に比較的昔だから、だけでなくてそういうことだと思う。


弥生
ピンチョン読んでたかも。
不毛なコンパのあと駅前のベンチで寝たりした。この世の終わり。
自分の意識を薄く薄く伸ばして街中に拡散させることを覚える、道端で他人に話しかけることを受け入れはじめる
再度ルームシェアはじめる。程よく気を使う感じでちょうどよい。
vento行った、パスタ笑うくらいおいしい。確かこの頃、向かいのコートデブランにも行った。笑うくらいお高かった。

卯月
はてなのバイトやめたりした。何でやめたんだっけ?
オケ時代の友達に偶然会って花見した、以降月一でご飯食べてる。
テニサーのブルゾンを見つつ、自分のタグをはがそうと、もがく。自己紹介恐怖症。自分ってなに?OLみたいなことになってた。いやなってる。
科学について、ベーコンとか読んでた
安田と伊勢に行ったりした、お風呂で何やってんだろ~とか言うた、はあ、OLや。

皐月
就活生や元就活生の話に疲れてくる。
GWで江戸に。真田とわちゃわちゃやる。
文芸フリマ、ごめんなさいごめなさい。来てくれた義兄「これから、どうすんの?」やまかつ、かつこ笑う。
ノンバーバルの難しさとか大切さについて考える。振る舞い。小説とか映画とか思い出においても、まず夥しい数の点が存在している。偶然による場面。これこそがきらめいているのであって、それを繋げる線、つまり脈略とか物語の輝きはずいぶん劣る。そのあたりとも関連するし、コミュニケーションとは、みたいなのともつながりそう。
 
社会的秩序に白米を挿入する試み、12月現在試めてません 。白米~
BBQしておもてなしして心地よい疲れ。
総人、大浦康介先生の誘惑論・実践編なるイベントに行った。のせる、演じる。
水上悟志の短編集3を読んだら面白さがわからなくて、悲しい。

水無月
ヘーゲル入門みたいなの読み出す、わかったりわからなかったり。歴史とか法の方がわかる、精神が難しい。

木田さんと販促会議やりはじめるがすぐに別動に。
サッカー観たりしてた。
たぶんチャイコフスキー聴いてた。
家にカウチサーファーが来た。ポーランド人のカップル。
ゲーテで女性の感じについて思うところある。グレートヒェン。
行かなきゃいかんのに山形行けない。ごめん。
このあたり近所のカワカフェに通ってた気がする、あと貧しくて豆腐ばかり食べてた。泣ける。


文月
テスト
貧しいのでスーパーで試食提供バイトやる、おばさんにモテてしかたない。モテたのとは別に、これ私に向いてると思った。ただ朝起きるのつらかった。
祇園祭
シェアハウスではやはりタグを貼られる。つらいけど取り去った時になにがのこる?ってなって口をつぐんだ。
川原誘って販促会議出す、そわそわする

テスト受けたり。
チョコミントのアイス食べてた、脳内で「歯磨き粉の味やろ」って言ってくるやつ用意して、そいつに言い返しながらせっせと食べてた。あいつ元気かな。
イル コルティーレ行った。

葉月
なんやかんやでヘーゲル入門読み終わる。
コリン・ウィルソンアウトサイダー」読む、ニジンスキーの項だったか、「高い閾を持った人は低い閾を持った人が即座に目覚めてしまうほどの騒音の中でも眠り続ける」とある。私は楽観的で閾が高いはずだから、精神はもっと安定していてもいいのにそうでない。不思議。

BBQ楽しい、事故る、まいった。
俳句に出会う、「風が吹く仏来給ふけはひあり」 だったかな?高浜虚子。それと関係あるのかないのか、12月になり虚子編の季寄せをポチった。
やまかつと旅した。
相変わらず豆腐食べてた。
マルニまあまあ
ハンバーグしか食べない週があった気がする。ハンバーグ専門店を含めて色々行ったけど、やよい軒のチーズインハンバーグがザベスト。ただチーズに頼りすぎているという批判あり。誰からやねん。

長月
シェイクスピアほとんど読めなかった

比較的死について考えてた、「幸田文の写真についての対談とか アクセルとサラの未来についてとか エリオットの世界の終わりとか 三島由紀夫の世界の終わりとか そのへんがぐるぐるぐるぐるしてる」とか言ってる。

Happy Elementsでバイトはじめる。周りみんないい人、プログラミングなぜか頑張れない。つらい。反面サポートはやりがいある。社長の自己顕示欲のなさ、誠実さに感銘を受けた。
川原大林と反転地にいく、大喜利楽しかった。鮎うまい。
夢売るふたりよすぎる、あまりに刺さるものだったので5回見に行った。
 
無印でバームクーヘンと飲み物買って、買い物途中の人と即席コンパしたいって思いつく。このアホな夢はいつ叶うのか。
バイト先で知り合いいて笑う。いや苦笑いか
ぎょーさん本を買おうという試み。
販促会議落ちてた、同じ企画で一長一短あるスライドが賞を取ってて泣く。悔しい。
チーズもそもそ食べてた、もはや中毒やった。
マルニ、以降マジでマルニ


神無月
伏見を覚える、死ぬほど行った、安いしうまいもん。
喉歌かっこいいけど真似できない。
Kindle Paperwhite買った。
たぶんこの頃ビオラ行った 。京都随一らしいワインバー。
小学校の頃の友達に誘われて飲みに行き、普段こんなことないので私が私でないみたいになった。

武田泰淳司馬遷 史記の世界」読んだ
宮沢賢治読もうと悪戦苦闘した
俳句会を見学しに行った、若者いない
文化祭行ったりして、なんやかんやした
クラスメイトとチファジャ行った、仲直り。また喧嘩するわけですが。
地に足ついて生きたいみたいなのずっと考える。地に足ついたって、何?と自問自答してみるが、ついてない人がよく目に入り、もやもやするだけで、一向にこれを言葉で表すことができない。とにかく!地に足をつけたいのです。


霜月
精神現象学を衝動買い。2ミリずつ読んでる。これは恋だ。
ギリシャ正教音楽みたいなの聴いて宣教師になりたいと思う。単純やん。宣教師を分解すると、定住の地を離れながら、自らの信仰を語り、人を救うとこにあるのかな。そう考えると、だいたいの行いは宣教師のつもりでできそうだからやってみようと思う。

ディプロマシーやる。脳がとろける。

友達が悩むのみて私も似てるなあ、みたいなことを思うけど当事者意識に欠ける。やはり想像力がないのかな。

元彼女と喋る。ざっくり言うと心配される。それはそれでいろいろ考えなければならないのだけれど、それとは別に、「今までの人生において、別れに、ちゃんと向き合って折り合いをつけたことがあったか?」とか考えた。卒業とか引退による別れでは折り合いを付けたとは言わないし、取るにたらない人とのふわっとした別れはちゃんと向き合ったことにならない。死はこの上なく受動的なものだし。別れは難しい。

俳句、義仲寺、芭蕉の墓。
グッドウィルハンティング観る。良い。ヒミズは良くない。
家が五条なんだけど、大学から遠いことにようやく気づきはじめる。馬鹿ですね~(所さん風)
安倍工房「他人の顔」とか森鴎外「渋谷抽斎」とか読む。


師走
ファストファッションさいこ~ってなる。けどヤコブコーエン買ったりもした。
誕生日を祝ってもらう。ありがたかった。結局みなさんの方向性がこーしーモテろみたいなところにあって畏敬しつつ笑った。
落ち着きたいなと思いだすけど着けない、落ちる落ちる。
専門の人と、戯れにロールシャッハテストやる、結果いつわかるんやろ。
日記をつけはじめる。
ウィリアム・フォークナー「アブサロム、アブサロム!」読んでる。渋谷抽斎ほどではないけど、伝聞によりサトペンの人となりが輪郭から描かれていく過程を楽しめば良いのかな。
いまから伊勢に行ってきます。家族旅行。
 
 
 
年内に書き直せたらいいな。
 
 

月に一度,本買い放題の日を作ってみる試み

アスリートのように本を買おう.

くしゃくしゃの1万円札握りしめてジュンク堂書店 京都BAL店に集合.
30日の夕方.興味ある人連絡ください.
毎月やればきっとおもしろい.
僕はこんな本にあたりをつけている.

篠沢フランス文学講義〈5〉大洪水の時代

篠沢フランス文学講義〈5〉大洪水の時代


宮沢賢治 (ちくま学芸文庫)

宮沢賢治 (ちくま学芸文庫)


宮沢賢治の世界 (筑摩選書)

宮沢賢治の世界 (筑摩選書)


強力伝・孤島 (新潮文庫)

強力伝・孤島 (新潮文庫)


ふらんす物語 (岩波文庫)

ふらんす物語 (岩波文庫)


どくろ杯 (中公文庫)

どくろ杯 (中公文庫)


焼跡のイエス・善財 (講談社文芸文庫)

焼跡のイエス・善財 (講談社文芸文庫)


ドイツ観念論 カント・フィヒテ・シェリング・ヘーゲル (講談社選書メチエ)

ドイツ観念論 カント・フィヒテ・シェリング・ヘーゲル (講談社選書メチエ)


100のモノが語る世界の歴史1: 文明の誕生 (筑摩選書)

100のモノが語る世界の歴史1: 文明の誕生 (筑摩選書)