2012-05-17

「じぶんってなんだろう」という話し合いをします

 

ずっと自分のことについて考えている。

もう一人の自分は「まだそんなこと言ってんのかよ!同い年の人たちは研究してバリバリ論文書いたり、就職してバリバリ働いていたりしてる。実直に歩を進めて自立してるにもかかわらず、お前そんなことでいいのかよ!いつまでやってんだよ!遊びすぎだ馬鹿!(吉高ゆりこっぽく)」と耳元で怒鳴っている。

 

それでも自分のことについて考えている。

 

自分らしさは、きっと自分の中にはない。私の中に真に固有のものなんてありはしないから。私に張り付いたタグをいくらかき集めたところで、その集合が自分という存在を裏付けるなんて、そんなのはまやかしでしかない。パスカルもそう言ってる。

・自分という存在を裏付けるものはあるのか、あるとしたらそれは何か。

・何を知ればあなたのことを知ったことになるのか?

 

わからない。

 

それぞれの持つ「自分らしさを他人に伝える方法論」みたいな話を聞きたいです。特に就活クラスタのひと。ただし、自分らしさについて考えて、それを言葉にして終わりではないはずです。

 

哲学的な意味での同一性や自我論に基づいて、自己認識について話し合いたいです。「人間蒸発」「自殺」「自分探し」などの社会現象についても同様です。ただし、それは自分が何であるかという問に向きあうための手段であるはずで、それで終わりではない。

 

というわけで、プラクティカルな話も、アカデミックな話も、どちらもしたいと思ってます。

 27-30日あたりにやります。興味ある人連絡ください。

 

2011-12-19

神話・ブログ・はてな

このエントリはHatena::Staff Advent Calendar 2011のために書かれたものです

 

神話は現代人と無関係ではない.神話は無意識の産物であって,作者の意図とは切り離されている.したがって作者が特定の個人であるかどうかは全く問題ではなく,あくまでも,太古の昔から語られ,現在に至るまで残っていることの方が神話にとっては重要なのだ.当然と言えばそれまでなのだが,言葉を持つことと神話を持つことは非常に近しく,言葉のをもった民族や文化圏ではもれなく,神話を発明している.個々人の記憶でなく,先祖の記憶のもっとも古いところにあるのが神話である以上,人の想像力の原型となっているというほかない.

実際,神話にはひきこもりとしてのアマテラスが描かれており,人権の闘士としてのプロメテウスの苦悩が描かれている.現代に生きる我々はそれを現実に即した物語として容易に解することができ,またそこから知見を得ることもできる.現代人は神話と無関係ではないのだ.ここ一万年ほどで,人類は大きく進歩したように思えるが,古代人も現代人も脳はさほど変わっていないようで,ずっと同じ悩みを繰り返している.

さて,話が大きくなりすぎてしまったのでブログに話を戻そう.古代人にとって,神話は生活の記録であり,過酷な生や不条理な運命を受け入れる手段であり,自然の脅威から身を守るための教訓であった.

では,現代人にとってブログとはなんだろうか?現代人にとって,ブログは生活の記録であり,世界の日進月歩や,複雑怪奇な人間関係を受け入れる手段であり,無気力の脅威から身を守るため教訓である,生きていく上で,世界はありのままの形では受け入れがたい.身の回りにある情報は小さな脳で処理するには多すぎるし濃すぎるからだ.そこで各自取捨選択して,日々起こったことを自分の心に合うように,自分なりの物語として記憶に落としこんでいる.

さらに,神話にはない性質として,作者の人格がある.多くの人にとって有益な情報はニュースでいくらでも知れるが,ボディーブローのように人生にじわじわ効いてくる情報というのは「○○するための50の方法!!」とかではないような気がしている.情報としての価値を重んじるのはいいことだが,プライベートなことを書いても意味が無い,誰が俺の人生に興味があるんだ?と謙遜しないでほしい.私はあなたの人生に興味がある.たっぷりと悩んでほしい.そしてブログを書いてほしい.

 

明日は英国紳士でお馴染み,id:ze-kiさんです. 

2011-12-18

傲慢と謙遜と卑屈(オースティンっぽい)

もし、天下一卑屈界が開催されて、キングオブ卑屈になった人間がいたとしたら、その人はどんな人だろうか、と考えたりする。

謙遜することは美徳とされてきた。実際に生きるのに都合が良いことが多い。生意気なことを言ってそれが利益を産むのは一部の魅力ある人間のみで、ほどよく謙遜しておいたほうが軋轢を産まずにすむのだと私は考えていて、それどころか謙遜の度を越して自らを貶め、自信を無くすことが多い。このような態度を卑屈と呼ぶのだろう。

卑屈な人間は自分の勇気や力が無いことをアイデンティティとするしかない。これらをさらけ出し、受け入れてもらうことで精神安定を図ろうとする。「できない」じゃない「やらない」だという理屈は、この考えの持ち主とは対照的に、非常に強くて揺るぎないものだ。もちろん、人には個性があり、向き不向きがある。自らの心の弱い部分に立ち向うには、まずこれを受け入れることが必要だが、その後あがくことをせずして、そのまま他人にも受け入れてもらおうとすることは恥ずかしいことだと私は思う。

などと頭ではわかっているのに私は卑屈な振る舞いをやめることができない。卑屈さは波のように大小の遷移を繰り返しているが、決して消えることはない。保険がかかっている状態の心地良さから逃れられないのだ。

だが、これは果たして卑屈と言えるのだろうか。自らの弱さを主張し押し付けている状態を卑屈と呼ぶことには抵抗がある。矛盾しているようだが、卑屈さは傲慢さと表裏一体だと言えるかもしれない。暴力的ともいえる喧伝の対象が自らの強さから自らの弱さに変わっただけのことではないか。自分に自信がないとは言いつつも、それを受け入れてもらうという厚かましさからは逃れられていないのだ。私はそのことを十分に理解する必要がある。

こんな時...キングならどうするか...と考えてみると、おそらく自らの弱さをひけらかすことさえしないのではないか。世界にとことん絶望し、自分に価値がないと心から思う人間は自らを貶めることさえしない。したがって被害妄想や自虐もしないだろう。その点では強くなる必要さえあるのかもしれない。真に卑屈な人間が卑屈な振る舞いをしないというのは逆説的で、非常に興味深い。と同時に私にとっては勇気の出る発想でもある。これからはキングに敬意を表して、気軽に卑屈になるのを慎みたい。

なお、キングは神話に過ぎないものとして書いていたが、実際に存在するかもしれない実例が思い当たった。それは、何も考えず、また何も考えさせない人間だ。そういう意味では、自らの想像力の欠如を感じることが多い私は最も卑屈な人間になる可能性を有している。(こう宣言した時点でキングへの道は閉ざされるのだが)

2011-11-09

高校の友人と鍋を食ったらしんみりした

昨日から風邪気味で喉が痛かったのだが,以前から約束していたので高校の友人とキムチ鍋を食べた.

あの人がどうこうらしいよ,という話を堪能したのだが,こういう話をする度に私の知らないことがいかに多いか思い知らされてつらい.仲の良い友達がいなかったかと言うとそうでもないとは思うのだけれど.どうも私はうわさ話に接することがあまりない.それってどんな人間像なの.影の薄かったなんとか君が飲み会の場に女子高生の彼女を連れてきたという話があって,それで自分が引け目に感じていることが想起された.私は,高校生活で恋人を作れなかったことを人並み以上に悔やんでいるのだろう.改めて自覚した.自分がヘラヘラとお気楽にやっている間に,世の高校生はキャピキャピしてきた.一人の想い人を親よりも大切にし,親には言えないことをしてきた.その事実を私は未だに受け止められないでいる.

この後悔を胸にタイムマシンに乗りたいと考えたが,昔の自分が変わるということは今の自分は今のままではなくなっているわけで,そうすれば今のステータス(良いところも悪いところも)も失っているはずである.それは悲しいことである.タイムパラドクスを盾にして何とか自我を保てた.藤子先生に感謝したい.

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