旅先での日本酒バーがこの世の終わりだった

美味しい店に当たってよかったなって気持ちを合算したものと,最悪な店に当たって嫌な気持ちになる気持ちを合算したものだと,多分前者の方が大きい。そういう意味では各種ご飯屋さんwebサービスは私にとっては有益である。表面上では。最近,といってもここ数年,安くてうまくて汚い店にはまっている。月に一度美味しい(客単価1万円くらい)の店に行く試みふいに途絶えて久しいのと,飲みに行く友人たちと共にハマった店があって,そこに通っているせいだ。また,よく昼食を採っていた安くて普通で汚い食堂で夜一人酒をすることも覚えた。だから,気軽さだけが売りの,電子レンジが主力の調理器具のような店に行くことはない。その傾向はこの一年で加速していると言えるだろう。京都や大阪の安くて美味しい店をまだまだ開拓したいし,来年以降はお江戸のお店を開拓したい。よく知らないなりに,上野や押上や神田が好きであると自覚している。

さて,先日,福岡の中州に飲みに行った。食事は済ませてあって,日本酒をのみたいということで複数探したのだが,これが難しかった。一番人気であろう店に電話したら予約でいっぱいだったので,二番目だか三番目の店を尋ねた。そこが最悪だった。まず入って思ったのが,小奇麗なカウンターで酒も多数並んでいて,好感を持てる店構えであったこと。ただ,ここからが悪さの連続で,悪さの合わせて一本と相成った。まずは,ガールズバーみたいなちゃらちゃらした姉ちゃん二人が接客していて,その二人に不思議な程高圧的に接する非モテっぽいサラリーマン達のやりとりを間近で見せられたこと。もう一点,1/4合くらいの,本当にヤクルトより小さい器の冷酒で800円くらいと,不当に高かったこと。800円のヤクルトって,なんぼほどビフィズス菌が入ってたらいいんだ。1合で800-1,200円くらいを想定していたので,度肝を抜かれた。どちらかなら結構である。合わせて一本。この合わせ技により「この不当な高さはガールズ料金が込み込みだからだ」という説得力のある推論が得られて,そこから不快感が臭ってきた。ガールズを必要としない私たちがガールズ料金を支払ってまで高い酒を飲む必要はない。また,そのことが食べログに記載されていないことにも腹が立った。

内装と置いてる酒の豊富さはなかなかのものだったし,いぶりがっこ美味しかったのだが,なんともまあつらい思いをした。食べログぐるなびホットペッパーの功罪である。中途半端な情報は,全く情報が無いことより恐ろしく,人を不幸せにすると思う。日本酒を飲みたくなって,無難なチェーン店であるところのウエストや寿司将軍に行けばいいものを,インターネットでの検索によって知る由もなかった店に行ってしまうのだ。もちろん,主に「こんな良い店,インターネットなしには知ることはなかっただろう!わーいわーい」という声が支配的なのだろうが,5回分くらいのこの種の喜びと,1回のこの世の終わり店での落ち込みは等価である。ホームランはいらない。三振を避けよう。各種ご飯やさんサービスは,そういう観点が弱いと思う。この世の終わりの店には行かないでおこう。やよい軒吉野家と数軒を大事に抱えて,しばらく生きていこう。

こし、韓国に行く

韓国に行ってきた。スマートフォンで撮った縦長の写真はブログに合わない気がして,載せるのに忍びないので割愛する。起きたことや思ったことを淡々と書きたい。途中までは時系列に沿って,途中からは思いついたままに書いた。

韓国に行くことになった経緯

部活で知りあって,月に一回のペースで集まっては料理をしてだらだら飲む友人たちと飲んでいる際に旅行することになった。そのうち一人が研究が忙しく突発的な予定が入る可能性をゼロにできないので,彼は行かないことになった。今思えばこの時点で日程を改めて別の日にずらせばよかったのだが,なぜか一人欠けたまま二人で行くことになっていた。二人が行ったことなくてわりと近くて,うまいものが食べられるのはどこだろう,という議論を経て,韓国にすんなり決まった。友人はすぐに航空券を取ったため,16,000円程度に抑えられたそうだが,そこから二週間ほど経過して私がskyscannerにアクセスした時には,最低価格が37,000円であった。五日程度の休暇期間の中で,日時をある程度やりくりしてもその価格は動かなかったので,私は腹をくくって航空券を取らないことにした

近づいていく出発の日,そして縮まっていく私の胃。比較的予定が開いている友人が一日早く出発し,次の日に私が合流して二泊か三泊するという予定であったが,私は未だに硬直したままだった。今回の旅行に37,000円払うくらいなら,出発を三人目の友人が行ける日にリスケして,今回無駄になった16,000円を私が補填するほうが安くつく。早くから航空券を抑えてさえすれば,繁忙期でも20,000円を超えることはないのだから。しかし,その旨を伝えるでもなく,いつのまにか二倍になってしまった航空券を取ることもなく,ただただ硬直していた。私の悪癖である。

リスケしたほうが絶対いいよなとは思いながら行動に移せず,ここに行ってこういうものを食べようという友人からの連絡には力ない目で「ええな」と返信していた。いや,むしろ「ここもここも美味しいらしいで」と力強く返信していた。狂気の沙汰である。なお,友人は私が航空券を取っていないことを知っている。合気道太極拳をかじったこともない私であるが,いつのまにかその極意を身につけていたのか,のらりくらりメッセージや胃痛をかわし続ける間に,ついに友人の出発日前日になってしまった。その期間たるや二週間ほど。私が出発すべき日の二日前にまで至った。免許皆伝である。航空券は大台を突破し41,000円。直前なら安いのでは?という一縷の望みはジェットエンジンによりぶっ壊された。「もはや仙台とか行こうかな,16,000円やし」などとのたまい片目が腐り落ちた私に対し,友人はメッセージで「船なら多少安かったりする,船でいいから,頼むから来てくれよ」と熱いコメントを寄越して,彼は日本を発った。

彼が出発した日,つまり私の出発前日の夜,私は仲の良いキノコヘアーの友人たちと飲んでいた。キノコのうちの一人が水原希子を連れてきていて,四人で大いに盛り上がった。眼帯がズレて気味悪がられたのは言うまでもない。キノコたちは私が太極拳を披露していることを知っていて,至極まっとうに「航空券を取ろう,あるいはリスケの提案を」と励ましてくれていた。夜も更けていたころその話になり,初対面の水原希子も笑いながら「行くか行かないか,今決めたほうがいいんじゃない」と助言をくれた。次の日,日本にいればキノコたちのある活動に参加することになっていたので,彼女たちは「活動のことは気にせず,普通に約束を守って航空券を取ってくれ,もちろん活動に参加してくれるなら歓迎だけど」と当たり前も当たり前のコメントをくれた。私はウイスキーを煽りながら行かない-行くを繰り返し,そのたびに残った方の目玉は腐った柿のようにずり落ちたり,また頭蓋骨に戻ったりしていた。五分ほど悩んだ挙句,結局その場でスマホから航空券を取った。次の日の夕方の便。なんという呆気無い幕切れだろうか。43,000円であった。その後,朝方まで飲んで帰宅。最高の夜であった。たいそうごちそうになったので,隙を見てお返ししていかねばなあと思いながら帰宅。きのこ帝国というバンドが普通に良い,ご存知?という話をしたらご存知だったようでむせた。(キノコたちはきのこという呼称を知っている)

帰宅後仮眠を取り,目が覚めたら午前10時。やっぱり,行かんとこうかなあと布団の中で考えた。なんという判断力の欠如だろう。飲酒運転はもちろん,大抵のことは飲酒してやるべきではないな,私は。布団にくるまっていると,親から電話がかかって来た。無心の連絡をしていたのだった。前日の夜中3時に明日韓国に行くので小遣いをくれという息子に対して,母は小遣いを渡したいけど,近江牛・松茸の暴れ食いバスツアーに参加中で滋賀にいること。兄も仕事中なので,渡せない様子なので,兄嫁に連絡しておいたこと。兄の家に行けばなんとかなると言い,父は牛肉と松茸はそんなに多くは食べられないこと,隣のテーブルの80歳夫婦が3回おかわりしていて度肝を抜かれたこと,などを優しく伝えてくれた。これは行かざるを得ないなとようやく思う。
兄嫁を訪ねて小遣いをいただき,クセの強い店員の店でうどんを食べる。その店員はいなかった。

出発

空港に到着し,チェックインカウンターに向かう。英語をしゃべる脳にスイッチ切り替わってないから不安だったが,スタッフが日本人で拍子抜けした。問題なく搭乗口まで進み,スターバックスでラテを飲みながら研究室に3ミリくらいしか進捗がない旨を連絡。飛行機では隣のおっさん(韓国人)が新聞を読んでて,そのせいで肘が肘掛を完全に通り越して攻めて来たのでイヤホンを肘掛けにねじ込む体で精一杯の反撃を試みて縄張り意識を主張してから寝た。機内食はパイナップルだけ食べた。イミグレで長いこと待たされたせいもあって,22時過ぎに友人と合流。行く行かないの葛藤をあれだけ繰り広げたわりに,特に感慨深さはなく,たんたんと何を食べるか話した。

焼肉高い

前日に友人が行った時は開いていたけど行列がすごくて入れなかったらしい,有名な焼きホルモン屋が閉まっていて,お腹をすかせた私達は棒立ちになった。定休日は全く別の曜日だったし,開店時間内に伺っていたにもかかわらず,である。いきなり韓国の洗礼を受ける形となった。結局このホルモン屋はこの次の日もその次の日も店の前まで行ったのに見事に閉まっていて,初日に彼がみたのは幻だったのではないか,という話になった。

繁華街であるところの明洞に行き,適当な焼肉屋に入る。大家という名前だったように思う。盛り合わせが1人前5,000円した。柔らかかったしお腹いっぱいになったけどごく普通の満足度であった。べっ甲の丸メガネをかけた細身の店主が近くでまかないを食べていたのだけれどかなり酔っていて,上手な日本語で何度も我々に絡んできた。肩組まれたり握手されただけでは飽きたらず,キスする距離にまで顔を近づけられたり,ニヤニヤ目を見つめてきたりした。酔いのせいはあるし,陽気な人ということではあるのだろうけど,それだけだとは思えなかった。完全になめられているなあと感じ,情けなくなった。20代後半くらいの中国人女性4人組がいて,特別マナーが悪いとも思わなかったけれど,中国人はこれだからみたいな呪詛の言葉を店主が吐いていたのが印象的だった。店主がアニキと呼ぶ,カタギじゃなさそうな人はカタギじゃなさそうな男女グループ20人くらいをを引き連れてやってきて,グループの人たちは黙々とピビンパなどを食べていた。アニキと呼ばれる人はずっとニコニコしていて,我々にも少し話しかけてきた。やはり流暢な日本語であった。友人はこの二人を本当の兄弟だと思っているようで,私はそれは違うだろと思ったが,特に訂正しなかった。

全体として,焼肉屋は感動はなくてエクスペリエンスもあまりなかった。安くておいしいものを食べに来たんだけどなあ,高いGDPから繰り出される資本主義の鉄槌の威力を楽しみにして来たんだけどなあ。「え!こんなに安いの!日本だと倍はするだろうな!」というコメントを懐にこれでもかと忍ばせていたのになあ。もちろん普通には美味しかったし,妥当な金額なのかもしれないけど,期待が高かっただけに肩すかしだった。旅を終えてから振り返ると,明洞という立地が悪かった気がする。おそらく銀座や三越前みたいなもので,多少割高なのはしようがないのだろう。

ゲストハウス

0時を回って,疲れてしまったのでゲストハウスに戻ることにした。当然ながらみんな寝静まっていた。小さなベッドが一つと二段ベッドが一つの五畳ほどの部屋がわれわれ二人の拠点となる。その日は歯を磨いてすぐに寝てしまう。次の朝,シャワーを浴びた。トイレとシャワーが一緒で,一緒といっても普通にイメージするよりも三倍くらいトイレとシャワーの領域が接近していた。決して汚くはなかったけどぎょっとした。The White Stripesを彷彿とさせる白黒赤のタイルだったので,頭のなかはずーっとSeven Nation Armyのリフが流れる。徴兵制を敷く韓国で,”They are gonna rip it off.”だなあ〜と感じた翌朝にSeven Nation Armyかあと思うと感慨深かった。換気扇の外では焦げたパンの臭いがしていて,次第にカレーの臭いになった。また,最終日になるまで他のシャワールームがあることを知らなかった。友人だけ前入りしていて後から入ったのでスタッフからの説明とかは特に聞いていないのだ。何気なく先シャワー浴びていいでとか言ったらおれこっちのシャワー使うし同時でええやんと返され,え?ってなった。


呪詛の言葉が多い

火事かなってくらい煙を放っている餃子屋で餃子を食べたりしつつ,散歩。ココからはオムニバスで書きます。広蔵市場がよかった。ただ,よかったのと同じくらい呪詛の言葉もいただいた。昼ごろ,市場周辺をうろうろしていたら70歳くらいのおばあさんに道聞かれて,”No, I cant speak Korean.”言うたら鬼の形相で睨まれて呪詛の言葉。睨まんでも良くない?思わずのけぞった。
広蔵市場,食べ物の屋台しかなくて,おいているものはほとんど同じ。キムチと豆腐が具の餃子,チヂミ,キムチスープと麺,トッポッキ,などなど。差別化要因がないので,屋台の客引きがスゴイ。やいやい言われるのが嫌なので,結局二番目に商売っけのないところに座った。(一番商売っけのないおばあさんの店は,商売っけがなさすぎて12時の段階でまだ仕込みが終わってなかった)ニコニコしたおばさん達が手際よく手元を見ずに切った麺と,餃子を食べる。隣の中国人一家の一歳くらいの子供が大変かわいい。やはり手元を見ずに麺を切る様子をタイムラプス撮影シてきゃっきゃ言いながら食べ終わり,立ち上がったらよその屋台の人と目が合う。そこでそのおばさんが明らかに修羅の形相でこちらを向いていて,目が合ったら呪詛の言葉を吐いていた。向かいの屋台に行った客が腹立たしいのはわからんでもないけど,そんなに怒らんでも良くない?

タイムラプス楽しい

麺を切る様子だけでなく,鳩撮ったり市場の様子を撮ったり。もう気分はタイムラプサーであった。

みんな日本語すごい知っててびっくりした

感じの悪い店員のことしか挙げていないが,実際はほとんどが気の良い店員で,少数の感じの悪そうな店員も何か尋ねたり頼んだら迅速に応えてくれた。そのギャップにはじめは驚いたが,次第に慣れた。あと,日本語・英語を話せる人が多いことにも驚いた。日本でいうと,田舎の文房具屋のおばちゃんが英語喋れたり,ローカル線の駅員が韓国語喋れたりとか,ちょっと考えられないでしょ。日本語話者と韓国語話者の人数差とか,外国人が落とす金額の多寡とか,様々な要因が噛み合ってた結果だろうから単純に韓国の語学教育すごいって話にはならないだろうけど,それでも感心したなあ。

1,500円でリュック買った。

8年くらいの付き合いのやつ,そろそろお別れだなあと思って新調した。丸メガネの調子の良い若者が店員で,気持よく買い物出来た。

YOUみたいな店員

YOUみたいな雰囲気の,なんだろう,そんなにかわいくないのだけれどその佇まいとか所作がなんとも愛くるしいおばさんがいて,なんかめちゃくちゃドキドキした。

メガネをおみやげに買った

どういうおみやげがいいかわからなかったので,無難なブラウニーを大阪のおばちゃんが「これローソンでも売ってるんやけどな」「まあええやろ」という会話をしている横で購入した。なお,おばちゃんが買った理由を尋ねると日本で買うよりはちょっとだけ安いからだそう。ほんまかいな。
あとはキノコ達に向けて,韓国の人がかけてそうなメガネを購入した。これで細身のパンツを穿けば韓国若者のコスプレができる。あとは,水原というソウルを少し離れた土地の小さな文房具屋で一目惚れしたA1サイズの便箋を購入した。小さな巨人みたいなことになっていて何を言っているかわからないと思うが,A1サイズの便箋である。優しいタッチで優しそうな少女が描かれた便箋と封筒。これは水原希子さんに差し上げるつもりだ。水原だけに。

サムゲタン食べた

同行した友人が二年間ほどサムゲタンを作りたいと言っていて,勉強も兼ねて食べに行った。店に行った時間が11時と,ご飯時をやや外していたせいもあるかもしれないが,客の殆どが日本人だった。隣が日本人男性と韓国人女性のテーブルで,二人の関係性を推し量れなくてやきもきした。明らかに仲は良さそうになくて,女性がたいそう気を使って接待トークをしている。ただ,ビジネスパートナーという堅い雰囲気は全くなくて,水商売の方と客という関係性がしっくりくる。ただ,時間が昼の11時過ぎなのだ。夜や,明けた朝なら理解できるが,昼前ってどういうことだろうか,と頭をひねった。昨夜はお楽しみだったんでしょうか。この二人のぎくしゃくした日本語での会話を聞いていると,このぎこちなさが,女性の日本語の不得手によるものではなく,二人の信頼度合いと関係に飛躍があるからなのだとわかった。その飛躍を支えるものは,お金のつながりだろう。高いGDPから繰り出される資本主義の鉄槌を楽しみにして来た私は,日本人中年男性が嬉々としてこれを振るっている様子に辟易し,反省さえした。当然私はご飯に対してのみ行使するつもりだったので,完璧に同類ではないと自己弁護したい気持ちもあるし,その主張には一定の妥当性はあるだろうが,一方である程度は彼のお仲間で,これは紛れも無い事実だ。先日の焼肉屋で振り上げた資本主義の鉄槌が(結果的に)小さいものであったことに少しだけ安堵した。私が鉄槌で自分の頭の形を確かめている間に,友人はサムゲタンに満足し,もう作るのは良いかなと言っていた。今までラム肉や鹿肉,タン丸ごとなどを調理してきた私達は,次にどこに向かうことになるのだろうか。

帰国後

帰ってきてから韓国風のマッシュルームカットにしてもらった。しばらくは私も韓国の若者コスプレしようと思う。研究室のみんなには旅行のことは言っていないので,秘密のコスプレである。

他人によるエピソードは豊穣の大地かもしれない

先日,内定先の同期が別の同期を評して,どちらかというと褒めた後で「〜けど,あいつ飲み会で死ぬほど酔っ払って街路樹に立ちションしてたけどな」と言っていた。強烈な印象を覚えた。彼のことがにわかに身近に感じられたし,何か心に残るものがあったのだ。そしてそれは,決して私が立ちションに親しみを覚えているからではない。このエピソードの是非はさておき,人となりを表し,新たに紹介する手段として,他人による一つのエピソードは非常に有効なのだなと実感したからである。

普通人を紹介する際には,紹介者との関係性,その人の所属や経歴,過去に成し遂げた大きなこと,などを説明するように思う。それらのどこか現実的でないともとれるタグや断片的な情報は白いところに白で字を書いているようなもので,それに比べて「こういう時にこういうことをする(した)人間です」というエピソードは,たとえ短くとも際立っている。息遣いが聞こえるかのように現実的で,圧倒的に豊かな情報量を持つのだ,と膝を打った。

当然といえば当然なのだが,他人によって語られるエピソードは,他人によって俎上に上げらている以上,何らかの愉快な出来事,少なくとも愉快さと出来事を含んでいる。それが当人にとってなのか,あるいは話者にとってなのか,聞き手にとってなのかはさておき,エピソードによって,その愉快なことが起きた背景や,経緯などの土壌をあるがままに知ることとなる。そこから,その人が普段身をおいている状況や育ってきた環境などが伺い知れるのだ。また,その状況で何かが起きてからの考え方や振る舞いによって,その人の世界の捉え方や考え方の癖,考えと実行との間にどのような伝達特性があるか,のっぴきならない状況下でどういう振る舞いをするのかというより根深い性質についての情報が得られ,それらは重層的かつ徹底的に広がりを持つ。

最近まで自覚していなかったのにもかかわらず,このことにふらっと出会ってしまってから,エピソードによってすごく分かった気になる経験を何度も繰り返した。そのエピソードにあまりにも心を奪われて,実際に会ったらイメージと違うというのでがっかりしたことさえあった。

思い返せば,エピソードの威力を知らず知らずのうちに体験していた。まず挙げられるのがくりぃむしちゅ~のオールナイトニッポン(ANN)である。熊本は済々黌高校のラグビー部出身であるくりぃむしちゅ〜の二人が過去を振り返って様々なエピソードを語ることが多かった。数多くのエピソードが公開され,そのことをリスナーが掘り返したりもじってネタを投稿した結果,一週丸々使った済々黌高校ラグビー部祭スペシャルが組まれたほどである。その際のゲストは「なせん」という先輩であり,当然素人なのであるが,リスナーは熱狂をもって彼を迎え入れた。

また,今でもはっきりと覚えているエピソードとして,ブリーフというあだ名の大親友が起こした事件がある。彼はくりぃむしちゅ~を結成する際に立ち会ったほどの古くからの友人である。ブリーフと上田が,もうすぐやってくる予定の有田を驚かそうと,布団の中で裸で抱き合って待っていたときのこと。思ったより有田の到着が遅れた結果,ブリーフが何故か上田の尻に噛みついた。とにかく有田に報告だと息巻く上田に対し,訳がわからなくなって「そのことについて黙っておくわけにはいかないか?口をつぐむわけにはいかないか?」と言ったというもので,このセリフは幾度と無くもじってネタハガキに用いられた。他の話も含めて,よくよく聞くとそれぞれに特別なうまさはなくて,良くも悪くも素材をそのまま出したんだろうなというものである。他のラジオパーソナリティのよく練られた話や,鋭い視点の話に比べると,なんてことはない,学生がバカをやった話に過ぎない。なのになぜあんなにもリスナーの心を捉えて話さなかったのだろう。

それこそエピソードの力,動詞の力に他ならないのではないか。印象的な話を聞くことで,重層的に各人物のことを知り,二人の学生生活を追体験することができた。なんてことはない同級生や先輩,先生の顔が徐々に明らかになり,世界が広がっていく。くりぃむしちゅ~のANNにはそういう面白さがあって,他のラジオとは一線を画していた。話の上手さや視野の広さといった,量的な差異ではなく,質的な差異がそこにはあった。飛び石のごとく配置された行動を進んでいくことで,登場人物が明らかになっていき,追体験する,というのは小説で行われることに他ならない。他のラジオが日常を切り取るエッセイや世間を読み解く評論だったとすると,それに比してくりぃむしちゅ~のANNは小説だったわけだ。さしずめ,リスナーの投稿は文脈を踏まえた二次創作だろうか。これも世界に奥行きを与えていた。これ以上は「くりぃむしちゅ~のANN飲み会に行ってきた」エントリで述べるとして(近く開かれる予定です)とにかくエピソードの力というのは動詞の力に依るところが大きい。履歴書に記載するような置いた文字(名刺や形容詞)と,最近あった面白いことなどの動詞を比べると,当然後者の方が実際性が濃く,固有の情報になるであろう。

そして動詞の力と同様に,他者の選出であることも重要である。他者の選出であるとはどういうことか,一言で言うと,他人が選ぶから容赦がない,ということだ。この客観性が絶妙なスパイスとなって,本人が絶対に言わないような部分を切り取ることにつながる。結果,聞き手を魅了するのだ。「大学を中退して農業をやるぞ,と単身北海道に乗り込み,住み込みで酪農家にお世話になったはいいけど朝の早さや労働のキツさに二週間で音を上げる。移動手段がなくて夜逃げもできない中,コンビニ店員に出会い,その弟に連れ去ってもらう形で夜逃げを敢行,そのまま同棲する。しばらく経って地元に帰ってきた。得たものは多くの経験と性病でした。」という剛のエピソードを自ら言う女性はなかなかいないだろう。
加えて,他者による選択では,このエピソードを旗頭にするんだ,というセンスを問われずに済む。通常の自己紹介には,本人がどのような人間であるかという情報に加えて,そのうちどのような点をピックアップし,表現するかという選択の基準やセンスなどといった情報が含まれざるをえない。私はこの点を憂慮している。非常に豊かな内面を持っていて面白いのにその伝え方が下手であったり,別の点を強調してしまっている人は少なくないように思う。あるいは,自意識が邪魔をして自身を切り取って一定の言葉に落としこむことができない人。秘する人。(もちろん,その荒ぶる自意識もまたその人自身の性質であるので,下手な自己紹介は「自己紹介が下手」という主張を行えていることにはなるが,それは屁理屈というものだ。)どの自分を取り出すかという選択のセンスの良し悪し,あるいはそもそも複数の自分の存在を許すかどうかというのは,本人の面白さそのものと切り離して考えられた方が,本人にとっても周りの人間にとっても有意義なのではないかと強く思う。秘する人達が心に飼っている妖怪自意識暴走太郎が苦しむと考えられる就活なんかも他人が応募する仕組みにしてみると面白いかもしれない。ほら,そうすれば志望動機などという問いに対する答えは全員「えーっと,他人(友人)が勝手に申し込んだので...」から始められるのになあ。

というわけで,エピソードの力というのは,「動詞の力」と「他者による選択」の二性質が対撚りになったものだと言える。他人のエピソードを語ることの重要性をしっかりと認識して,積極的に使っていきたい。友人に別の友人を紹介する際には,自分とどのような関係性を築いていて,あるいはどんな仕事をしていてどんな考え方の持ち主で,といったことを事細かに説明するのではなく,それらを十分に伝えられるような,あるいは単に最短距離で思い出せたエピソードで評し,語り,実際に引き会わせてからはとりあえずあることないことを肩の力を抜いて話させてみて,相性がどうなっているかを見極めてもらうのがお互いにとって良い方法だと現段階では思っている。現時点での結論がどのように変わっていくのか,じっくりと見つめていきたい。また,このブログは自分にとってエピソードの塊であるといえるのだから,動詞の力を信じて書き続けるようにしたい。

「NO MORE 映画泥棒」によるチクチクした痛みについて

「最後の命」という映画を観た。映画自体の感想を語りたいところだけど,今日はそこまで辿り着かない。前段階として言っておかねばならないことがあるのだ。NO MORE 映画泥棒というあの映像についてだ。近日公開予定の予告をいくつか見終わって場内の明かりが落ち,観客が呼吸を改めた時に映像は始まる。映画泥棒こと妖怪カメラ頭がスーツを着て気味の悪い踊りをして,映画を違法撮影する。妖怪パトランプがこれを取り締まる,というものである。単館上映を除き,あらゆる映画館で幾度と無く観てきたこの映像であるが,元々は一時的なキャンペーンであったと記憶している。はじめて見たときはこれほど不快ではなかったように思う。小気味良いビートから繰り出される奇妙なダンス。カクレンジャーの敵かと思ってしまうような強烈な容姿。ユーモラスに警鐘を鳴らしていて,それほど嫌だとは思わなかった。むしろうまいインターフェイスによって上手に注意喚起できていることを好ましく見ていた。それが,長年同じ画を懲りずに見せられているうちに不快感がこみ上げてきた。喉のチクチクした痛みのような,致命的ではないのだけれど生命力を低減するような不快さ。その理由は少なくとも二つある。

一つ目は,違法撮影するつもりがなく,海賊版DVDを観ようとも思ったことがないであろう多数の人を疑っていること。どちらかと言うと映画館に足を運ぶ方だし,けれど海賊版DVDを買ってまでいろいろ観たいほど映画大好きマンでもない(映画好きが海賊版DVDを観ることが良しとするとは思わないけれど)。私よりも映画好きで,何なら映画業界にお金を落とそう!とか思っておられる方もいるだろう。足繁く通っている方々こそのボディチェックを無遠慮に行うような,この映像を幾度と無く見せられているのだなあと考えるとため息を通り越して喘息が出そうになる。いくらズンドコズンドコ小気味の良い音楽と踊りというインターフェイスで包んでいるはいえ,やっていることは味方を背中から撃っているようなもので,この点についてキャンペーンの企画者(映画業界のお偉いさんなのだろう)は自覚的なのだろうか,と疑問に思う。

二つ目の理由は,肝心の映画泥棒防止に何ら貢献していないと思われることだ。我々善良な一般市民を巻き添えにしてでも,映画泥棒とやらの被害を減らすことができていれば良いのだが,どうも功を奏しているとは思えない。情に訴えかけても意味が無いことは明らかである。違法撮影をする人はいわゆる普通の感覚の我々からすると"神経を疑う"べき,ねじれの位置にある人達なのだから。前提としての考え方が真っ向から異なる場合に,そのことを踏まえずに働きかけようとすることほど滑稽なものはない。私はシェアハウスに長らく住んでいて,いろいろな人間が弾性衝突するのを見てきた。例えば,この世には掃除ができない人間というのが存在する。掃除アビリティを持たない人間に対して,掃除をしなさいと言っても意味は無い。掃除ができないのだ。できない理由を考えて,障害を一つ一つ取り除いていきましょうね,というのも何ら効果が無い。理由など無く,ただできないのだ。考え方が入り口のところから違っていて,全くの別次元であるのなら,分かり合おうとしてはいけない。人と人がコミュニケーションをするような手段を使ってはいけない。自然の脅威や,獣害のように扱わなければならない。防御と先延ばしか,徹底的に根絶するか,住み分けるか。話し合いや成長を見守るということは人間相手にしか通用しない。戸を作っても壊されて,柵を作ってもよじ登られる。斜め上からぶっ叩かなければならない。

もちろん,ねじれの位置にあっても人間は人間,カメラを持ってニット帽をかぶりスクリーンの前に座る人(コナンの黒い人を想像してください)がある映像を見て感情を本揺さぶられ,カメラに手をかけることなく2時間眼前の光に没頭し出て行くことがあるのかもしれない。そのような美しい光景がこれまでになかったとは言い切れない。だが,彼らは伊達や酔狂でやっているのではない。単純にお金儲けのためにやっているのだろう。映像を加工し,流通させる組織に雇われて派遣されているにすぎない。そういう人が多少胸を痛めたところで,何になるというのだろう。いずれにせよ,スクリーンで何とかなる問題ではない。現実はそううまくはいかないし,だからこそ映画を観るのだと思う。

このように,NO MORE 映画泥棒という映像は,映画泥棒を止めることができず,市井の人々の気を削ぐことしかしていない。初めて妖怪カメラ男を見た時の驚嘆が失われた今,なぜ未だに放映されているか。唯一,効果があるとすれば,違法なのを知らずにやる人を減らすというものだけど,それは戦争の後に一輪の花が咲いたよみたいな話で,だから良いとはならない。屍の山が築かれているのだ。文句を言ってばかりなのはどうかと思うので,斜めからぶっ叩く方法として何がふさわしいかどんなものが良いか考えてみようと思う。(もちろん,上でも述べたがスクリーンでできることには限界があって,最適解は映画館の外にあるのは承知のうえで)

一つめの理由を改善するために必要なことは,メインメッセージの変更である。視聴者の極々大部分が映画泥棒など夢にも思わないのだから,"撮影するな",ではなく"撮影を見かけたら通報してくれ"とすればよい。「監督以下スタッフ,役者,配給会社等々,彼らは映画を愛している。堤幸彦は除くありとあらゆる関係者は魂を込め,寿命を縮めて映像を作っている,映画館に足を運ぶ皆のためにに良い映画をお届けしたい一心で。暑さ寒さといった過酷な環境に負けず,怪我を覚悟でアクションをして,必要ならば建物を壊した。。構想数十年みたいなのもざらにある。そんな映画を違法に撮影しアップロードすることは犯罪者であることは当然,魂を汚す行為である。映画は多くの製作者にとって何にも代えがたい命であって,その命を掠め取って換金している点で悪魔と呼ばれてしかるべきだ。視聴者の方々はこれから映画を観て勇気をもらったり,励まされたりするだろう。明日からも頑張ろうと思えるだろう。映画泥棒をしている人を見かけたら,その勇気を少し振り絞って,係員まで通報してください。」席から立たずに通報できる手段を用意すればなおのこと良い。 "the force will be with you. "である。

二つめの理由を改善するためには,いろいろなやり方がある。「妖怪カメラ顔野郎のあの人,中の人がテレビに出たりしていましたがあれは嘘です。本物の妖怪カメラ顔野郎は,実際にあんな顔なんです。彼は昔違法撮影をしていた人です。ある時捕まって,私刑として頭をカメラに変えられてしまったのです。映画業界からは拍手喝采でしたが,一方でやりすぎではないかとの声も増し,人体改造を主導した博士は糾弾への対応に追われました。ノイローゼになった博士は自らの頭を警報器に変え,人であることを辞め,一生をかけて違法撮影者の根絶に注力することを誓ったのでした...そんな二人はもう何も考えることはできず,ものも食べられず,滑り台を滑ることもできません(顔がでかいから)。撮影中を表すカメラの赤いランプが灯ったら,コミカルな踊りを繰り出すしかできない体に改造されたのです。次にカメラ頭になるのは,あなたかもしれません。NO MORE 改造人間... NO MORE 映画泥棒...」みたいな恐怖を煽っていくスタイルもあれば,
「実は,違法DVDを観ればギリギリどの映画館でいつ放映されたかがわかる符丁がすべての映画には仕込んであります。もしあなたが撮影者だとしたら,DVDが流通して1週間は身を隠していたほうが良いかもしれませんね。我々映画業界の者は,流通するDVDからなんとしてでも特定し,監視カメラのデータからあなたの顔を割り出します,次回からはその顔写真をもとに,何があっても捕まえます。この妖怪カメラ野郎は決してあなたの顔を忘れませんよ!(着ぐるみもったいないから再利用してみました)」というSF的管理社会スタイルとか。

とにかく,今後も「NO MORE 映画泥棒の動向」は注視し続けたいし,「何かを禁止,注意喚起する広告物や映像のあるべき姿」はしばらく私の感心事の一つになるだろう。そう思いながら,今日もJR西日本による,鉄拳のパラパラ漫画を用いた転落事故防止の映像なんかを見ている。あ,「最後の命」は男女で見に行くとしんどいからお気をつけください。

大阪ブロガー万博に行ってきました

 2012年以来まともに更新していない私だが,11/2(日)に催された大阪ブロガー万博2014に参加してきた。2012年というとロンドンオリンピックの年で,まだ民主党政権であり,免許はとっくに失効していておかしくない時間が経っている。ブロガーが免許制でなくてよかった,と胸をなでおろしながら参加登録をした。受付で黒服のセキュリティに戦闘力(ブクマ数やPV数)を測定されてつまみ出されそうになったら食い気味で「永遠のブロガー見習いですから!」と絶叫する心の準備をして,会場に降り立った。結果,ボブサップじみた人はいなかったどころか,非常にフラットな環境で交流を楽しめた。みんなブログを書いているという共通点があることと,それ以外に共通点はなく,全然異なる思考と嗜好を持っていることの両方が波状的に効果を及ぼしていた。

 多くの人が集まる場ではボブサップが現れるものだと思っていたし,みんなボブサップになりたいもんだと思っていた。主催をしてくださって,多くの人に声をかけて回ってくれる,みんなが知っている人。知られていることは価値であり,人を集めることは錬金術である。その人は知ってか知らずか高みに登り,有象無象がそれを見ることになる。呼ぶ側と集まる側の差はあまりにも大きく,呼ぶ側へ注がれる視線には様々なものが混じる。このことに気づいたのはごくごく最近のことだ。あちこちで仲人のようなあるいはホストのような役割を果たしているエネルギッシュな人,部族間抗争を起こしかねないほどにサークルの中と外を厳格に区別する人,イベントを主催して収益を上げる人などを横目で見ていて,徐々にそう思うようになった。あとは就活などで東京に行き,東京の人と話すことでも得られた知見であった。切符持つ人・持たぬ人を純然と区別し,無名のままだと内蔵を引きずり出される。有名な奴は偉い,偉い奴は強い,強い奴は偉い,ブクロサイコー。そんな東京。(お前,東京の何を知ってんねん。無名が無名のままでいられる,稀有な街だと言えるかもしれないのに)

 集団は集団であるだけでエネルギーを生む。そのエネルギーを欲しがる人や,自分の力として振り回す人が現れるのは必然である。今回の大阪ブロガー万博においては,このエネルギーの扱いに細心の注意を払われていた。それは主催の方々が,運営や主催を名乗らず,あくまで徹底して"言い出しっぺ"と自称しておられたことに象徴される。みんなが主役で,フラットに,オフ会を作り上げたいという思いが隅々まで行き渡っていたし,その細心の注意を払われていたように思う。この背景にあるのが美学なのか人柄なのか,何らかの意図なのか,残念ながら聞きそびれてしまってわからない。ただ,私は大阪らしさを心ひそかに感じた。

 また,みんなで作り上げたオフ会とはいえ,"言い出しっぺ"の方々の準備やホスピタリティのおかげで会が成功したのは紛れもない事実であり,感謝しているのでここで改めて心よりお礼を申し上げておきたい。ありがとうございました。また,ブログについて皆さんから得られた刺激はこれから徐々に,ブログを通じて示していくつもりだ。本当にお疲れ様でした。ブログサイコー。