他人によるエピソードは豊穣の大地かもしれない

先日,内定先の同期が別の同期を評して,どちらかというと褒めた後で「〜けど,あいつ飲み会で死ぬほど酔っ払って街路樹に立ちションしてたけどな」と言っていた。強烈な印象を覚えた。彼のことがにわかに身近に感じられたし,何か心に残るものがあったのだ。そしてそれは,決して私が立ちションに親しみを覚えているからではない。このエピソードの是非はさておき,人となりを表し,新たに紹介する手段として,他人による一つのエピソードは非常に有効なのだなと実感したからである。

普通人を紹介する際には,紹介者との関係性,その人の所属や経歴,過去に成し遂げた大きなこと,などを説明するように思う。それらのどこか現実的でないともとれるタグや断片的な情報は白いところに白で字を書いているようなもので,それに比べて「こういう時にこういうことをする(した)人間です」というエピソードは,たとえ短くとも際立っている。息遣いが聞こえるかのように現実的で,圧倒的に豊かな情報量を持つのだ,と膝を打った。

当然といえば当然なのだが,他人によって語られるエピソードは,他人によって俎上に上げらている以上,何らかの愉快な出来事,少なくとも愉快さと出来事を含んでいる。それが当人にとってなのか,あるいは話者にとってなのか,聞き手にとってなのかはさておき,エピソードによって,その愉快なことが起きた背景や,経緯などの土壌をあるがままに知ることとなる。そこから,その人が普段身をおいている状況や育ってきた環境などが伺い知れるのだ。また,その状況で何かが起きてからの考え方や振る舞いによって,その人の世界の捉え方や考え方の癖,考えと実行との間にどのような伝達特性があるか,のっぴきならない状況下でどういう振る舞いをするのかというより根深い性質についての情報が得られ,それらは重層的かつ徹底的に広がりを持つ。

最近まで自覚していなかったのにもかかわらず,このことにふらっと出会ってしまってから,エピソードによってすごく分かった気になる経験を何度も繰り返した。そのエピソードにあまりにも心を奪われて,実際に会ったらイメージと違うというのでがっかりしたことさえあった。

思い返せば,エピソードの威力を知らず知らずのうちに体験していた。まず挙げられるのがくりぃむしちゅ~のオールナイトニッポン(ANN)である。熊本は済々黌高校のラグビー部出身であるくりぃむしちゅ〜の二人が過去を振り返って様々なエピソードを語ることが多かった。数多くのエピソードが公開され,そのことをリスナーが掘り返したりもじってネタを投稿した結果,一週丸々使った済々黌高校ラグビー部祭スペシャルが組まれたほどである。その際のゲストは「なせん」という先輩であり,当然素人なのであるが,リスナーは熱狂をもって彼を迎え入れた。

また,今でもはっきりと覚えているエピソードとして,ブリーフというあだ名の大親友が起こした事件がある。彼はくりぃむしちゅ~を結成する際に立ち会ったほどの古くからの友人である。ブリーフと上田が,もうすぐやってくる予定の有田を驚かそうと,布団の中で裸で抱き合って待っていたときのこと。思ったより有田の到着が遅れた結果,ブリーフが何故か上田の尻に噛みついた。とにかく有田に報告だと息巻く上田に対し,訳がわからなくなって「そのことについて黙っておくわけにはいかないか?口をつぐむわけにはいかないか?」と言ったというもので,このセリフは幾度と無くもじってネタハガキに用いられた。他の話も含めて,よくよく聞くとそれぞれに特別なうまさはなくて,良くも悪くも素材をそのまま出したんだろうなというものである。他のラジオパーソナリティのよく練られた話や,鋭い視点の話に比べると,なんてことはない,学生がバカをやった話に過ぎない。なのになぜあんなにもリスナーの心を捉えて話さなかったのだろう。

それこそエピソードの力,動詞の力に他ならないのではないか。印象的な話を聞くことで,重層的に各人物のことを知り,二人の学生生活を追体験することができた。なんてことはない同級生や先輩,先生の顔が徐々に明らかになり,世界が広がっていく。くりぃむしちゅ~のANNにはそういう面白さがあって,他のラジオとは一線を画していた。話の上手さや視野の広さといった,量的な差異ではなく,質的な差異がそこにはあった。飛び石のごとく配置された行動を進んでいくことで,登場人物が明らかになっていき,追体験する,というのは小説で行われることに他ならない。他のラジオが日常を切り取るエッセイや世間を読み解く評論だったとすると,それに比してくりぃむしちゅ~のANNは小説だったわけだ。さしずめ,リスナーの投稿は文脈を踏まえた二次創作だろうか。これも世界に奥行きを与えていた。これ以上は「くりぃむしちゅ~のANN飲み会に行ってきた」エントリで述べるとして(近く開かれる予定です)とにかくエピソードの力というのは動詞の力に依るところが大きい。履歴書に記載するような置いた文字(名刺や形容詞)と,最近あった面白いことなどの動詞を比べると,当然後者の方が実際性が濃く,固有の情報になるであろう。

そして動詞の力と同様に,他者の選出であることも重要である。他者の選出であるとはどういうことか,一言で言うと,他人が選ぶから容赦がない,ということだ。この客観性が絶妙なスパイスとなって,本人が絶対に言わないような部分を切り取ることにつながる。結果,聞き手を魅了するのだ。「大学を中退して農業をやるぞ,と単身北海道に乗り込み,住み込みで酪農家にお世話になったはいいけど朝の早さや労働のキツさに二週間で音を上げる。移動手段がなくて夜逃げもできない中,コンビニ店員に出会い,その弟に連れ去ってもらう形で夜逃げを敢行,そのまま同棲する。しばらく経って地元に帰ってきた。得たものは多くの経験と性病でした。」という剛のエピソードを自ら言う女性はなかなかいないだろう。
加えて,他者による選択では,このエピソードを旗頭にするんだ,というセンスを問われずに済む。通常の自己紹介には,本人がどのような人間であるかという情報に加えて,そのうちどのような点をピックアップし,表現するかという選択の基準やセンスなどといった情報が含まれざるをえない。私はこの点を憂慮している。非常に豊かな内面を持っていて面白いのにその伝え方が下手であったり,別の点を強調してしまっている人は少なくないように思う。あるいは,自意識が邪魔をして自身を切り取って一定の言葉に落としこむことができない人。秘する人。(もちろん,その荒ぶる自意識もまたその人自身の性質であるので,下手な自己紹介は「自己紹介が下手」という主張を行えていることにはなるが,それは屁理屈というものだ。)どの自分を取り出すかという選択のセンスの良し悪し,あるいはそもそも複数の自分の存在を許すかどうかというのは,本人の面白さそのものと切り離して考えられた方が,本人にとっても周りの人間にとっても有意義なのではないかと強く思う。秘する人達が心に飼っている妖怪自意識暴走太郎が苦しむと考えられる就活なんかも他人が応募する仕組みにしてみると面白いかもしれない。ほら,そうすれば志望動機などという問いに対する答えは全員「えーっと,他人(友人)が勝手に申し込んだので...」から始められるのになあ。

というわけで,エピソードの力というのは,「動詞の力」と「他者による選択」の二性質が対撚りになったものだと言える。他人のエピソードを語ることの重要性をしっかりと認識して,積極的に使っていきたい。友人に別の友人を紹介する際には,自分とどのような関係性を築いていて,あるいはどんな仕事をしていてどんな考え方の持ち主で,といったことを事細かに説明するのではなく,それらを十分に伝えられるような,あるいは単に最短距離で思い出せたエピソードで評し,語り,実際に引き会わせてからはとりあえずあることないことを肩の力を抜いて話させてみて,相性がどうなっているかを見極めてもらうのがお互いにとって良い方法だと現段階では思っている。現時点での結論がどのように変わっていくのか,じっくりと見つめていきたい。また,このブログは自分にとってエピソードの塊であるといえるのだから,動詞の力を信じて書き続けるようにしたい。